すわ』
 と、応酬した。
『それはいかん。どんなことでも、不平がましい顔を禁ずる』
『では、うちの経済がもちませんわよ』
『経済なんぞ、どうでもいい。破産してもかまわねえ』
『うちには、破産するほど財産なんかないでしょう』
 細君は一つも良人に負けていない。
『財産がないのがいやなら、出て行けっ』
『じゃあなたは、自分の家内より友達の方が大切なんですか』
『なにい』
『身のほども知らないで、居候なんか抱えこんで』
『うぬっ! 生意気っ!』
 とうとう、悪化してきたようである。
 隣座敷で、私はこれを聞いていた。細君の語勢は、隣座敷にいる私に、聞こえよがしであるように察しられるから、私は少々耳が痛かった。しかし、もとは私のことから出たのであってみれば、この喧嘩を知らん振りして黙っている訳にはゆかない。喧嘩の場へ飛びこんでいって、
『やめろよ。夫婦喧嘩は犬も食わないちうからな――』
 何と仲裁のしようもないから、こう言ったのである。
 細君は、顔ふくらして横向いた。友人は、
『君、気にかけて貰っちゃ困るよ』
 と、にこにこと笑った。
 私は、ひどくてれ臭かった。胸板の裏へ、何か物が閊《つか》えたような気持ちになった。
 友人というのは、魚問屋の帳場に勤めていて、あまり高給を頂戴している方ではなかった。足かけ三月も、居候していれば、その家がどんな暮らしをしているかは誰にも分かる。あまり物ごとに屈託しない私でも、深く責任を感じた。

     三

 二月に入るとすぐ、小田原をたった。友人に都合して貰った金で、上州の高崎まで汽車に乗ったのである。
 高崎の友人は、ひとり者であった。ところがこの友人は僅かな収入でありながら、一人の居候を抱えて苦しんでいた。そこへ私がころげ込んだのである。つまり居候の先輩がいた訳だ。
 友人は、急に三人ぐらしとなった。二人の居候は毎日、これといって用事もないのであるから酒のむことばかり考えている。それを何とか工面してくる友人の懐《ふところ》は、四、五日でいきづまった。友人は松本玉汗と呼び、先輩の居候は小池銀平と言った。ついに、玉汗は悲鳴をあげた。
 そこで玉汗が言うに、三人でここでこうしていたのでは、近く飢えるにきまっている。だから僕がいろいろ思案した揚句《あげく》、思い出したのはいま長野市にいる猪古目放太という友達だ。この男が、どうやら暮らしていることは風のたよりにきいている。その男に何とか、三人の身の振り方を相談しようではないか。何とかなるだろう。
 だが、果たして猪古目が長野にいるかどうかは、しばらくたよりがなかったから、長野まで訪ねてみねば分からない。しかし、いまはもう僕の懐には一文もない。旅費がないとすれば高崎から長野まで三十六里を歩いて行かねばならないのだが、諸君なにかほかに妙案があるか。
 居候二人に、何の妙案も持ち合わせないのは分かっているのである。万事、玉汗の指導にまかせることにした。
 もとより玉汗は僅かな家財しか持っていないのを売り食いしてきたのであるから、いま残っているのは古本ばかりだ。それを、紙屑屋に売って五十銭できた。これで何とか、長野まで露命を繋《つな》がなければならないことになったのである。
 二月八日の、春たつ朝である。さて、三人は知恵を絞った。結局その五十銭のうちから、古道具屋へ行って矢立一本と、別に短冊十枚を買った。俳行脚《はいあんぎゃ》の者に扮《ふん》し、私が発句を読み、字の上手な玉汗が短冊に筆をはしらせ、道中で役場や小学校を捜しあて、口前のうまい銀平が短冊を売って歩こう、という仕組ができたのだ。
 ひる前に、高崎をたった。料峭《りょうしょう》の候である。余寒がきびしい。榛名山の西の腰から流れ出す烏川の冷たい流れを渡り、板鼻町へ入ったとき、さつま芋を五銭ほど買って、三人で分けて食べた。それから安中《あんなか》宿に続く古い並木を抜けた途上であったと思う。一つの小学校のあるのを発見した。そこでいよいよ商売に取りかかることになった。発句の方は私に旧稿があるし、字は玉汗がすらすらいけるからいいとして、一番しっかりやって貰わねばならないのは銀平の役目である。ところが銀平は尻ごみして動かない。
『おれは決心が鈍った』
 と言って、路傍の石に腰をおろし、空を向いて瞑目した。
『高崎をたつときは、随分鼻息が荒かったが、どうしたんだい』
『馬鹿にはにかんじゃったな――そんな人柄じゃあるめえ』
 などと、玉汗と私はからかったが、銀平は真面目な顔で、
『おれは不得手《ふえて》だ』
 と呟《つぶや》くのである。
 もっとものことだ。駄洒落《だじゃれ》みたいな発句と妙な字をぬたくらせた短冊を、自分たちにしたところが、それを持って役場や学校の玄関へ立てるだろうか。どんなに押しの強い人間でも、こ
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