そうかね、それじゃあ、まあ何もかまわんことにするから、眠くなるまでゆっくり話そう』
情けない言葉だ。
そこでまた、校長先生の口から碧梧桐の新傾向論がはじまった。それに続いて、元禄のころこの碓氷峠の裾に、芭蕉の弟子となった白雄という俳人がいた、という昔話になったのだが、口から綴り出すその糸のような言葉の、長いこと。
私は、空腹が睡気に変わってきた。先生の話を感服して聞く誠実さがなくなった。玉汗一人が眼鏡を拭きふき、まことしやかであるだけだ。
そこへ、母屋の方のお婆さんが、唐黍《とうきび》の焼餅を、大きな盆に山ほど積んで、お茶うけに持ってきた。この座敷の寒い空気に触れて、白い湯気がおいしそうに焼餅から立ち揺れる。
眼が、急に輝いた。三人は、競うように大きな焼餅を貪り食った。――もう、晩飯はすんできた――という三人を、校長先生は呆れ顔で見ていた。
翌朝、一升五合炊もはいろうと思う大きな米櫃《こめびつ》へ、白い飯を山盛りいれて出してくれた。そのときの、下仁田葱の熱い味噌汁の味がいまでも忘れられない。給仕に出たお婆さんが、味噌汁を替えに行った留守、三人はひそひそと、
『きょうの昼めしは、どうなることか当てにはならない。そのつもりで、充分腹に支度をしておけ』
と、囁き合った。米櫃はからからになった。私らは、厚く礼を述べた。そして、辞して去るとき先生は、
『これは、ほんの短冊の紙代だけだ』
こう言って、紙のおひねりを出してくれた。
私達は、また平伏したのである。
中仙道へ出て四、五町歩いてから、その紙包みをあけてみると、二十銭はいっていた。
あのとき、校長先生は四十歳を過ぎていたように見えたが、いまでもお達者に暮らしているであろうか。
六
碓氷の峠路から眺める重なり合った峯と谷はまだ寒山落木の姿であった。だが、東に向いた陽当たりの雪のない山肌には、波のようにやわらかい襞《ひだ》が走っていて、落葉の間にも何となく潤《うるお》いがある。やはり、春たつ順気が地の底に、眼ざめているのであろう。
路は、この頃のようになだらかに改修されていなかったから、なかなか険しかった。足ごしらえの悪い腿が痛む。けれど、けさふんだんに食べた飯が腹にあるから、いずれも元気だ。
午《ひる》が少しまわったころ、峠の頂へ出た。ここには、上州と信州の国境を示す石の標柱が、嶺から平野へわたる風のなかに立っていた。その標柱の礎石の前の小さな石塊を背に分けて、東側に降った雨は遠く流れて太平洋へ、西側へ降った雨の粒は日本海へ、おのおのの行方を語るのであろう。路傍の赤土の面を掘った細い糸ほどの溝の跡が二本。一本は利根川を指し、一本は信濃川を慕い、思い思いの方を向いて互いに運命の坂を下っている。
私らはそこから行手をみてびっくりした。顧《かえり》みれば、下野の男体山から赤城、榛名、妙義、荒船、秩父山かけて大きく包まれている関東平野は、もう浅春の薄い霞の帷《とばり》をおろして、遠く房州の方へ煙っているというのに、信濃の国の方は青銀色に冴えた一面の雪野原であった。
山の中腹の、浅い雪からは、枯芒が穂だけ出している。吹きだまりの深い雪には落葉松が腰まで埋めている。大浅間の頂は、真っ黒な雪雲に掩われて窺い知れないが、南佐久の遙かな空には真っ白な蓼科山が鋭い線を描いて、高く天界を截《き》っていた。
凄寒を催す眺めだ。この雲行ならば、また雪が飛んでくるかも知れない。風が、痛い。長野まではまだ道のりの半分もきていないのだけれど、何の防寒の用意もなく懐も冷たい私たちは、これから先、この積雪のなかを、踏み分け踏み分け行かねばならないのか。それを思うと、脚が立ちすくむ。
こうして、寒雪に恐れていつまでもここに佇むわけにはゆかぬ。勇気をつけて、軽井沢の方へ坂を下った。軽井沢の宿へ入ると、人の踏みつけた雪は凍って、油断をすれば低く摺り減った日和下駄の歯が、危うく滑りそうになる。
いまの軽井沢は、文化風の建物が櫛比《しっぴ》して賑やかな都会となっているが、そのころはまだ北佐久郡東長倉村の一集落で、茅葺屋根の低い家並みが続いていて、ペンキ塗りの外人の避暑小屋は落葉松の林のなかに、ばらばらと数えるほどしか見えなかった。殊に冬は死んだように閑寂とした宿であった。
きょうも長倉村でさつま芋を五銭買って分けて食べた。ところが信州は物が高いと見える。
上州の板鼻で買ったときよりも、同じ五銭でありながら、きょうの方が量が少ない。そんな細かいことに気づいて、三人は笑った。
浅間|颪《おろし》が、横なぐりに雪の野を吹き荒れてくる。だが尻をからげて路を急いでいると、峠の上で恐ろしがったほど寒さを感じない。かえって、ほんのりと額に汗がにじむくらいである。
沓掛の宿を過ぎた頃は
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