の半分の十杯を飲んだだけで、後は、
『もはや、叶わぬ』
 と、掌を横に振った。時に漸く夏日暮れんとし、笙歌《しょうか》数奏。豪勇ども各々|纏頭《てんとう》、這うようにして帰った――
 このころの、酒の価についての文献は見当たらぬ。もっとも、この酒合戦は雲上で行なわれたことであるから、酒の値段など詮議しないでもよろしかろう。
 正体なく酔い潰れたのを泥之泥という。肥前の唐津では、酔っ払いのことを『さんてつまごろう』と称えるが、これはどういう意味であろうか。大阪で『よたんぽ』というのも分からぬ。
 私は、この年輩になってもまだ泥のように酔うので困る。体力が次第になくなるので、これから先は一層酒に対してこたえが無くなるのではないかと思うと、ほんとうに心細い。稗官小説に――南海に虫ありて骨なし、名づけて泥といふ。水中に在れば則ち活き、水を失へば則ち酔ひて一堆の泥の如し――と書いてあるが、この虫は岡へ上がった河童と同じように、水から離れると正体を失ってしまうものと見える。私も酒を飲んでいる時の方が、機嫌がいい。だが劉伶と同じように既に酒渇を病んでいるのでは、堪らぬと思う。
 万葉の歌人大伴旅人は、
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なかなかに 人とあらすは 酒壺に[#「酒壺に」は底本では「酒壼に」] なりてしかも 酒に染なん
[#ここで字下げ終わり]
 と、詠った。嗚呼《ああ》[#「嗚呼」は底本では「鳴呼」]、われ何をか言わん。

     七

 細川家に、増田蔵人という六千石を領する重臣があった。これは若い時から身持ちが悪く、いつも酒ばかり飲んで放埓《ほうらつ》であったから、父の某は臨終に家中の井戸亀右衛門を枕頭に招き、わが死後は伜の行状を厳重に監督してくれ、とくれぐれも頼んで息を引きとった。
 それから、亀右衛門と蔵人は殊のほか眤懇《じっこん》になった。亀右衛門はもと丹後の小野木縫殿助の家来で、忍びの名人として天下に聞こえ、大力の上に早業をよくし城の塀など飛鳥のように飛び越す武人であったが、小野木家滅後細川家へ仕えたのである。そして二千石を領していた。
 蔵人は、父の死後も身持ちが直らない。朝から酒をくらって遊び歩き六千石の大身でありながら、少しの金の蓄えもなくいつも財用不足勝ちであった。だから、亀右衛門は折り折り強意見を加えた。ところが、その時は承服するけれど見奢りきった僻やまず、これを見て亀右衛門はほんとうに心を痛めてきたのである。ある年、蔵人が江戸の勤番を終えて帰国する途中をはかり、亀右衛門は十人ばかりの家来をつれて馬上に乗り出し、路上でばったり蔵人と出合わした。亀右衛門はことさらに忙しい風を装い、ただ一礼したのみで行き過ぎた。蔵人はこれを不審に思って馬をかえして亀右衛門を呼び止め、
『貴公、大分忙しそうだが何か急用でもできたのか』
 と、問うた。ところが、亀右衛門は、
『大事起こり候』
 こう答えたばかりで、また行きすぎようとする。蔵人は、いよいよ不審に思って、さらに馬をかえして亀右衛門を呼び、
『日ごろ眤懇のよしみ、このままでは水臭い。どんな大事か聞かせてくれ』
『そうか――いや別ではないが、このたび大阪に戦の用意あるによって主人も出陣との沙汰がある。ついては、拙者もその仕度に出かけるところだ』
『それは大変だ』
『そこで、加賀山隼人も近々三百人ほどの家来を打ち立てしとのこと――貴公も隼人と同祿であるから三百人の家来を用意して出陣せずばなるまい』
 亀右衛門は、こう言ってから口を一文字に結んで顔を緊張させた。これを聞いて、蔵人はその場で色を失ってしまったのである。
『面目ない。いま我らには金の蓄えが一文もご座らぬから、このたびの軍役は勤め難い。この申し訳に、帰宅の上切腹仕らん。貴殿との面会もただ今限りである』と、涙を払ってから『同じ家中の人々には、戦場にて討死なし、功を立てるものもあろうに、軍役が勤まらで、居ながら切腹する身はいよいよ武運尽きた。いざ、お別れ申さん』
 と、蔵人は馬の頭を向け直し覚悟は充分であるという風があった。この体を見て亀右衛門は、
『これこれ、ちょっと待ってくれ、拙者も貴殿の宅まで同道しよう』
 と、言いながら蔵人と馬の頭をならべて歩き出した。しばらく、二人は無言でいたが、やがて亀右衛門が静かに言うよう、
『拙者、ただ今申したことは、皆偽りである、けれど、遠からず大阪に合戦が起こるであろうことは、誰が眼にも見えているところだ。その時、今日の後悔がないように、拙者ただ今偽りを申した。いまから奢りをやめ倹を専らにして、いつ合戦が起こるとも差し支えなきよう、軍用金を蓄え置くことこそ、武士のたしなみに候』
『かたじけなし――』
 蔵人の眼から、暑い涙がふり落ちた。
『これまで、貴殿の諫《いまし》めを用いなかったは、わ
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