た。
 料理人の太助というのが三升入りの丹頂鶴盃の縁から、すうっと吸い込み、会津の旅人河田と名乗るのが万寿無彊盃から緑毛亀盃まで三通り合計七升を平らげ、丹頂鶴金に及ばなかったのが残念であった、と宙に向かって息を吹く。大長という男は四升余りを飲み尽くして近所に寝ていたが、次の朝、辰の刻ごろに眼をさまして再び中屋六右衛門の隠家へやってきて、きのう会った人々に一礼をなし、そこでまた一升五合飲んで家へ帰ったという。

     六

 日本の酒合戦は、遠い昔から行なわれている。いまから一千余年前、醍醐天皇の延喜十一年六月十五日、折りから盛夏の候であった。太上法皇は水閣を開いて、当時天下に聞こえた酒豪を招いて醇酒を賜わったのである。けだし禅観の暇、法慮の余、避暑の情をやり、選閑の趣を助けたというから、随分風流に寛《くつろ》いだ催しであったに違いない。
 けれど、ご招きに応じた者は甚だ少なかった。参議藤原仲平、兵部大輔源嗣敬、右近衛少将藤原兼茂、藤原俊蔭、出羽守藤原経邦、兵部少輔良峰、遠視左兵衛佐藤原伊衡、平希也など僅かに八人であったのである。何れも当時無双の大上戸で、四海でその名を知らぬ者とてなかった。酒を飲んで石に及ぶと雖《いえど》も、水をもって沙《すな》を濯《そそ》ぐが如き者であったというのであるから、浴びるほど飲んでいたのであろう。
 一同顔が揃うと宴席に勅令が降《くだ》った。大杯の内側に墨で線を描き、増さず減ぜず深浅平均。これを二十杯ずつ回し飲みにして、雄を称せよ、という御意であったのである。そこで、諸豪は何れも口を任せ、競うて呷《あお》りつけた。ついに大杯が、一座を六、七巡に及んだ。すると、大いに酩酊した。東西も分からず、ふらふらとなってしまった。そのうち一番ひどかったのは平希也で門外に潰《つぶ》れて動けなくなった。次に降参したのは藤原仲平で、殿上に小間物屋開店に及んだ。他の連中にも我にして我にあらず、泥之泥也。
 中には、舌が縺《もつ》れて口がまわらず、鳥が囀るような声を出すのもある。藤原経邦の如きに至っては、はじめ快飲を示していたけれど、とうとう心身共に蓬《ほお》けてしまい、げろを吐いて窮声喧々という有様だ。ところが、この厳しい合戦にわずかに態を乱さなかったのは藤原伊衡一人で、法皇からご賞詞があり、褒美として駿馬一頭を賜わった。けれど、御意の二十杯には達せず、そ
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