百三十文位の値段の酒を用いたのであろう。
茨木春朔の墓は、小石川戸崎町瑞鳳山祥雲寺にあり、正面に不動の立像を刻し、左に法名は酒徳院酔翁樽枕居士。左に辞世の二首、
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皆人の 道こそかわれ しじの山 打ちこえみれば おなじふもと路
南無三ぼう 数多の樽を 飲みほして 身はあき樽に 帰る古里
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と、いうのが刻んである。台石の蓮花の中に、延宝八庚申正月八日とあるのは、この碑を建てた日である、と※[#「竹かんむり/均」、第3水準1−89−63]庭《いんてい》雑録に載っている。戸崎町は、私の陋屋《ろうおく》から遠くはない。近く小春日を選んで、祥雲寺に我ら酒徒の大先輩の墓を展し、礼を捧げたいと考えている。
蜀山人の書いた『酒戦記』の事実は、江戸北郊千住宿六丁目に住む中屋六右衛門という人の隠家で、文化十二年霜月二十一日に行なわれた酒合戦の模様を描写したものである。この酒合戦に集まったもの一百余人。中には、狂花(腹立上戸)、病葉(眠り上戸)、酒悲(泣き上戸)、観場害馬(理屈上戸)などもやってくる。席に、宮島盃(一升入り)、万寿無彊盃(一升五合入り)、緑毛亀盃(二升五合入り)、丹頂鶴盃(三升入り)をならべ、干肴は台にからすみ、花塩、さざれ梅、また、別の台には蟹と鶉《うずら》の焼鳥を盛り、羹《あつもの》は鯉の切身に、はた子を添えた。
この戦果を検すると、新吉原中の町に住む伊勢屋言慶という老人が三升五合余りを飲んだ。馬喰《ばくろ》町の大阪屋長兵衛という四十男が四升余り、千住かもん宿の方からきた市兵衛と名乗るのが、万寿無彊盃で三杯飲んだというから合計四升五合。やはり千住の松助は、宮島盃、万寿無彊盃、緑毛亀盃、丹頂鶴盃など一通り飲み干したから都合八升。
はるばる下野の国小山から参加した作兵衛というのが七升五合。浅草蔵前の左官蔵前正太が三升。新吉原の大門長次というのは水一升をまず飲んで、次に醤油一升は、三味線で拍子をとらせ口鼓をうちながら飲んだという。千住掃部宿の天満屋五郎左衛門は四升。
女猩々も参戦した。江の島で酌女をつとめ、鎌倉|界隈《かいわい》では名うての豪傑おいくとおぶん、天満屋五郎左衛門が女房おみよの三人は一升五合入りの万寿無彊盃を傾けて酔った風もなく、千住の菊屋おすみは二升五合入りの緑毛亀盃をグイと飲んで、うわばみ振りを発揮し
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