いうスリルも共に味わうので、稚鮎を梅酢に泳がせ、梅酢を含んだところを生きているまま食うなど、この比ではない。
それは、甚だ物騒なご馳走だね。
しかし、僕は決して針の生えた生きている蜂をそのまま口へ放り込めとは言わん。やはり、頭足いまだならざる幼いそしてやわらかい子の方が、初心者に歓迎されるのだから、いよいよ蜂の巣を採って来たならば、諸君は自分の好きな方を食うがよかろう。
蜂の子を一匹ずつ巣から、ピンセットで引っ張り出し、それをそのまま味醂、醤油、砂糖でからからに煮てもよし、塩にまぶして焙烙《ほうろく》で炒ってもいい。油でいためればさらによく、蜂の子めしに至っては珍中の珍だ。
とは言え、さきほど申す通り、塩をふって生きているままを食うのに越したことはないのである。そこでまあ、食味のことは巣を採ってから、お互いに賞翫《しょうがん》することにして、食うことよりも巣を発見するまでが面白い。山野を跋渉しなければならないから健康的で、まず新スポーツとでも言えるだろう。厚生省が高唱している体位向上の主旨にも叶《かな》うわけだ。
まあ、騙《だま》されたと思ってついてき給え、明夜は蜂の子で送別の乾杯だ。
二
昨年の十月下旬の某日、私と痘鳴と、大妖と論愚の四人は斜酣のあとへ從った。目ざすところは、武蔵野の大泉方面の叢林《そうりん》である。
斜酣を先導として武蔵野鉄道の大泉駅へ下車して村を抜け、野路を越えて畑のなかへ出た。折りから漸く秋深く、楢と椚の林は趣をかえて紅葉の彩に美しい。芒の穂も茅の穂ももう枯れた。
五、六十間さきへ行った斜酣は、畑の中で何か踏んづけた模様である。踏んづけたものを、斜酣は右の手で抓《つま》みあげた。蛇だ蛇だ。蛇は鎌首に楕円の波を打たせて持ちあげるが、なかなか斜酣の手まで鎌首が到達しない。私らは、何の目的があって蛇を捕えたのだろう、と考えて斜酣の側《そば》へ駈けつけた。
すると斜酣は蛇の首を靴の踵《かかと》で踏み砕いておいて、直ぐ蛇の皮を剥いでしまった。砥石《といし》の粉色の斑点を全身に艶々と飾っていた山かがしは、俄に桃色の半透明な肉の棒と化してしまったのである。
斜酣、貴公は鮮やかな腕前を持っているの。私らは驚いて斜酣の器用な手先を見ている。
彼は徐ろにポケットから洋刀を取り出し、件の肉の棒を骨ぐるみ、輪切りに五つ切りばかりに
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