、瀬音ばかりを響かせていた楢俣沢は、夜が明けると白い河原を渓の両側に展《ひろ》げているのだ。私は、歩きながらふと、何十丈か崖下の河原に眼をやった。すると大きな雌熊が仔熊二匹をつれて、岩の下の沢蟹を掘っては食い、掘っては食いしているではないか。その途端、私の腰はへなへなと、萎えてしまったのである。
つまり、腰が抜けたのだ。熊の親子は、崖の上の山路に私が這いつくばっているのを知らぬらしい。なおも、悠々と蟹を掘っている。私は、熊を横眼で睨みながら、竿を投げだし、四つん這いに這って坂を這いはじめたが、うまく腰が動かない。ちょうど脚をかがめて寝た夜の夢に、魔物に追いかけられるが脚が痺れて意のままとならず、危なく生命を奪われようとすることがある。まさに同じ恰好だ。
も一つある。それは四、五年前、浅間山の北麓六里ヶ原の渓流へ、山女魚《やまめ》釣りに行ったときのことだ。折柄六月中旬で、標高三千尺のこの六里ヶ原へはまだ春が訪れたばかりの頃であった。北軽井沢で案内人を雇い、鬼の押し出しの方から流れる濁り川と呼ぶ渓流へ足を入れた。
渓流は、その頃まだ冬枯れのままの叢林に掩われている。案内人と二人は、あ
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