れないほどでした。
前の方は崖になっていたので、熊はそのまま崖の曲がりを縫って大きな岩のかげの方へ走って行きます。これから熊の進んで行く方面は、私に分かりました。そこで私は、充分に装填して熊の先回りをして、谷の底で待っていると熊は三十間ばかり上方の沢を渡って叢《くさむら》の残雪のなかへ這い上がりました。
三十間の間隔では少し遠い。これを一発で仕止めるわけには行かない。それは、熊はこちらへ尻を向けている。尻を撃ったのでは彼らは対して痛痒を感じない。
しかし、このまま見遁せば熊はいずれへか逃げてしまう。いつまた出逢うものか分からぬと思いましたから、尻を目がけて一発ぶっぱなしました。たしかに手応えがあった。すぐ次の弾を装填した。
ところが、熊はくるり私の方へ向き直って逆襲してくるではありませんか。よろしいと私は思いました。逃げる熊は仕止めるのは困難ですが、向かってくるのなら、こっちのものだ。よしこい。私は引きつけるだけ引きつける作戦です。熊は私の前方四、五尺の点まで近づくと、大きな真紅の口を大きく開き、二本の前脚をあげてひとひねりにひねりかかろうと猛然と突っ込んでくる。矢頃《やごろ》を見はからって、撃った。なにしろ、三、四尺の距離しかないのですから、外れっこありません。頭の真ん中へ、弾は命中しました。四十貫の巨体は地響きたてて倒れました。
熊を正確に撃つには、熊の頭へ銃口が触れるまで、近く引き寄せるだけの度胸を養うことです。熊の頭に銃口が触れていれば、弾が外れるわけはありません。
三
これは、私の命拾いでありました。実は前日、修繕にやって置いた銃が鉄砲屋から届いたのを、そのまま試しをやらないで舁《かつ》いで猟に出たために不発であったのです。修繕したら必ず試してみなければなりません。
私は、上信越国境の山々で五、六十の熊の穴を知っています。熊の穴は、もっと他にも数多くあるのでしょうが、人間に発見されるのはそのうちの少部分であると思います。穴の数を多く知っていることが、つまり熊を数多く撃てるという結果になるのですから、随分危険な崖や叢林を跋渉しなければなりません。この地方では私が一番熊の穴の数を知っているのです。
穴といいましても、どの穴にも必ず熊が入っているというわけではありません。その穴で一度熊が撃たれると他の熊は七、八年から十年間くらいは寄りつきません。血の臭いや、火薬の臭い、焚火の臭いなど穴の入口に残っているからでしょう。穴の近所の樹の肌に、熊は歯や爪で印をつけます。これは、縄張りを示すためであろうと考えられています。立派な穴があって、それを大きな熊が発見しても、先住者がいるそこへ侵入しないものです。先住者が小さな熊であっても先住者の権利は尊重する習性を持っているように見えます。
熊にも、居付きの熊と渡りの熊とがあります。渡り熊というのは遠方から旅してきたものです。旅からきた熊には、小さいものはいません。
私がいままで撃ち取った四十四頭の熊の約半数は雌熊でありました。そのうち数頭は、仔連れの雌熊であります。しかし、どの雌熊の腹を割いてみましても孕んでいるのを見ませんでした。そんなわけで、熊がいつ交尾し、いつ穴のなかで仔を産むかを知りません。仔連れの熊は二、三貫目より小さいものは伴っていません。それより小さいのは足が幼いため親と歩行を共にすることができないから害敵に出会った場合に危険に陥る場合を考えているためでしょう。
十二、三貫にも育った仔熊を伴っている場合もあります、十二、三貫目に育つには三年かかりますから、熊は毎年仔を産むとは限っていないようです。雌熊は普通二匹を産み、その二匹は必ず雄と雌であります。
三月末から四月にかけた雪解けのころ熊は穴から出ます。穴に入るのは十一月下旬から十二月はじめで、初冬が山を訪れる季節です。穴に入って春まで冬眠を続けるために、穴に入る前に大いに食べて体力を養います。肉がついて丸々と肥え、脂肪も厚く乗っているので、晩秋に撃ち取ったものが最もおいしいようです。春になって穴から出るときは、長い冬の間に体の脂肪を消費しているので、晩秋のものほどおいしくありません。
真夏の熊の肉は、殆ど食べられないといってよいでしょう。
肉は、普通すき焼きと味噌漬けにして食べるのが結構です。春の熊は穴の中にいて食べ物を摂りませんから内臓はきれいです。内臓のうち肝臓が一番おいしいと思います。
四
熊には相場が定まっていません。私は、相手の希望に委せて売っておりまして、決して無理はいわないのです。無理に高い相場をつけて、売り損なっては大変ですから、安く早く売って一日も早く次の猟に出る準備をいたします。
しかし、大体相場はあるものです。私は肉を、百匁百円から百二、三十円に売ります
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