碁の闘ひを持つてゐます。遠からず私が、日本の棋界を征服して凱歌を揚げて故郷中国へ帰つて行く、その確信です。蒋介石よ、その日がくるまで隠忍自重してさうして最後に溜飲を下げて貰ひ度い。といふ念願です」
かう語りながら、呉清源は面を紅潮させ、清純な眼底を輝かせた。
私は、これをきいて、ひとりでに頭が下つた。眼頭に熱いものを感じた。
しかしながら私はこの話を誰にも語らなかつた。殊に、戦争中血を見て吾れを忘れてゐる日本人がこの話をきいたならば、どんな不祥事が起らぬとも限らないと思つたからである。
呉清源が今は、日本棋界征服の緒についたこと、私が今から十三、四年前彼を訪ねて、この話を交したことを想ひ合せて、読者諸兄にこの一文を読んで戴きたいと思ふ。
そのとき、呉は二十二歳の若年であつたのである。旺也其念力。
呉清源は、屡々「天授の一石」といふ言葉を唱へる。
碁の盤面は縦と横と各十九区劃宛に割られてゐる。総計僅かに三百六十一劃であるが、その変化をかぞへるときは何百億、何千億といふやうな天文学的数字となつて打つ手の変化は到底人知の及ぶところではない。難局の際、勝敗を決する一手の打着に遭遇した場合、どの点を撰んで処理するかは、人間が百年考へても、千年考へても、考へ及ぶものではないのである。そこに「天授の一石」が生れてきたと呉清源はいふ。
囲碁は、もと奕と謂ひ太古尭帝が山中に於て仙人から伝授されたもので、その理は深幽遠大、天地融合の相を示して太極を究むるは宇宙と共に悠遥たるべしと称されるのであるから、難局に際しての一石は天の命ずるところに従ふよりほか術はあるまい。
この思想は、元来東洋哲学から生れてゐるのである。老子の哲学である。老子の哲学は、仙人の哲学である。呉清源は少年のころから老子の哲学を好んで学んできた。今日でも同じである。さうして仙人の道を求めてきた。であるから呉の風格は、仙人に似て測り知れないところがある。そんな次第で、彼の一生を普通人から見れば、奇行の一生といへるであらう。
昭和十年ごろの夏の一日であつた。瀬越、小野田、橋本、篠原、呉清源などの日本棋界の強豪と、報知新聞の生駒※[#「皐+羽」、第3水準1−90−35]翔並に私など、木更津の海へ簀巻の漁に行つたことがある。その日、漁が終つて潮が上げはじめると南の風が伴つて海が荒れ、浪に弱い生駒※[#「皐+羽」、第3水準1−90−35]翔は船酔ひを起して顔色蒼白となり、いかにも苦しさうであつた。その姿を見た呉清源は、なんと思つたか、ひよいと立つて※[#「皐+羽」、第3水準1−90−35]翔のうしろへ廻り、黙つてその肩へ飛びつき、指先しなやかに揉みはじめたのである。
舟中の一同は、興味あることであると思つて、ほゝゑんだ。
その夜のことである。夕方、舟から上つて一同木更津の大きな旅館へ泊ることにした。晩酌とめしが終つて、いづれも陶然としてゐると、そこへ宿の老女中が入つてきて、女はいらぬかといふ。早く予約して頂かないと、今夜は他よりも泊り客が多いから品ぎれになるから、いかがですと交渉をはじめた。木更津といふところは、どこの旅館でも宿の女中が夜伽を稼ぐ慣はしがある。そこで橋本、篠原、小野田などの若い健啖の連中、忽ち予約を申し込んだ。
次に老女中は最も年少で美男子である呉清源のところへ行つて「あなたは、いかがです」と勧誘した。諸先輩が三人も揃つて予約したのに、自分もその例に習はねばならぬかと考へて、ひどく当惑した。
「先生、どうしたらいゝでせう」
師匠である瀬越八段の前へ畏つて坐り、かう呉清源は伺ひを立てて指揮を待つたのである。すると瀬越八段は、
「なあに、あんな狼連をまねないでもよろしい」
と答へた。それで呉は、ほつと安堵の胸を撫でおろした。そのときの、彼の顔は今も忘れない。
呉清源は、日本へ来てからも、仙道を求めてやまなかつた。しかし、日本には仙人はゐない。老子の哲学を学ぶ同好の士もゐない。そこで彼は、日本の邪教や拝み屋のうちから、仙人の姿と仙の思想を発見しようとした。
彼は日本へきたのは十三歳であつたがその翌々年の十五歳の春、だしぬけに師匠瀬越八段の家から抜けだして姿を隠した。さあ、瀬越家では大混乱である。わざ/\中国から預つた秘蔵の愛弟子に万一のことがあつては申しわけが立たないと、百方手を尽して彼の行衛を探したけれど皆目分らない。それでも、たうとう彼が丹波亀岡の大本教の本山に、参籠してゐるのを発見したのである。師匠瀬越は直ぐ亀岡へ馳けつけ、いやがる呉清源を二日も三日も口説いて、漸く東京へ連れ帰つたことがある。
その後も彼は、邪教や拝み屋などに仙の思想を探してやまぬ。今から十年ばかり前である。彼は、西両国のあるところに一人の拝み屋を発見した。そして、こ
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