海豚と河豚
佐藤垢石
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)大抵《たいてい》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)百二十五|哩《マイル》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]
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一
鯨と名のつくものなら、大抵《たいてい》は食べたことがある。『大井川のくじらは、婦人にしてその味を知るなり』と、言うことからそれは別として山鯨、なめくじら、海豚《いるか》に至るまで、その漿《しょう》を舌端に載せてみた。
ところで、山鯨のすき焼き、なめくじらの照り焼きなどは大そうおいしいけれど、海豚の肉はどうも感服しかねる。晒し鯨の酢味噌にしたところが、肉そのものには何の味もなく、ただその歯切れのよさを貴ぶだけで、酢味噌の出来が旨《うま》くなかったら、食べられるものではない。
缶詰に至っては、沙汰の限りだ。てんで、口中へはいるものではないのである。君は鯨取りの元締だから、何とか鯨をおいしく食わせる法を講じられないものか、と友人のある捕鯨会社の幹部に問うてみた。そこでその友人が言うに、それは君の認識不足だ。鯨の上肉は到底、山鯨やなめくじらの比じゃない。晒し鯨や缶詰を食っただけで、鯨の味品を論ずるとは僭上至極、近く機会を求めて鯨肉がどんなにおいしいものか君に食わせてみせる。食ってみてから議論を聞こうという気焔である。
晒し鯨は、鯨の皮膚から脂肪を絞った糟だ。缶詰にするのは、肥料にしても惜しくないような肉だから、君が賞讃しないのも無理はないが、一体関東人は鯨肉の本性を知らない。馬肉の方を上等なりとしている人さえある。ところが、大阪人は鯨の肉をよく知っている。紀州や土佐の国など鯨の産地が近いから、鯨の生肉がたやすく手に入ったためであろう。
しかし、大阪の商人はひどいことをやった。生肉のおいしいところは、大阪で上手に料理させ手前たちの口に入れてしまって、捨ててもいい下等の肉、つまり動物園へでも運びこもうか、という代物《しろもの》を缶詰にこしらえて全国へ売り出したから、鯨はまことにおいしくない、ということになってしまった。鯨肉をまずいものにしたのは、大阪商人の罪だ。
それはとにかくとして、僕の会社のキャッチャーボートが四、五艘、いま牡鹿半島の鮎川港を根拠地としていて、毎日金華山沖で盛んに捕鯨をやっている。僕は、近いうちにそれを視察に行くことになっているから、君も一緒に行ってみないか。そこで、鮮鯨の肉の素晴らしいのをご馳走しようじゃないか、というような訳になった。
よし、万障繰り合わす。
さて、このほどいよいよ金華山沖へ漕ぎ出すことになった。仙台から牡鹿半島の突端まで二十五、六里、その間の山坂ばかりの長い道中を、スプリングの弾力が萎《しな》びてしまったバスに揺られて漸く鮎川の町へ着いてみると、馬鹿に臭い。
町へ入る少し手前の、切り通しの坂までくると自動車の窓から吹き入る風が、呼吸がつまるように臭いのだ。生まれてはじめて鼻が経験する臭いだ。町へ入ると家、道、庭木、草、川、人間、犬、電信柱なんでもかでも臭い。この臭いは何だと問うと、これは鯨の臭いだと友人は答える。
これはひどい。素晴らしい鮮鯨の肉は、こんな窒息的の臭いを出すものか。こんな訳なら遙々《はるばる》こんなところまでくるんじゃなかった。と言うと、友人は、いやこれは腐った鯨肉の臭いだ。鮎川の町の人はどの家でも膠《にわか》や肥料をとるために鯨の肉を細かく刻んで、庭や路に乾して置くがそれが腐って、こんな臭いを発する。
それがために、あの臭いものなら何にでも集まってくる蝿でさえ、あまりにその臭いの強烈なのに驚いて、この鮎川の町から悉《ことごと》く逃げ出してしまった。けれど、いきのいい鯨肉は、こんなに臭いものではない。
二
それで安心した。
その夜半十二時、私らは第二京丸というキャッチャーボートに乗って鮎川港から金華山沖へ出た。三百二十トン、軽快な船である。
眼がさめると、朝七時。船は金華山から百二十五|哩《マイル》の太平洋を走っている。洋上一面の濃霧で、三、四町先も見えないくらいだ。展望がきかないから鯨はおろか鴎《かもめ》さえ見えないのだ。
霧の流れる船橋に集まって、船長から鯨の話を聞く。
鯨には抹香《まっこう》鯨、槌《つち》鯨、つばな鯨、白鯨、ごんどう鯨、白長鬚鯨、長鬚鯨、鰮《いわし》鯨、座頭鯨、背美《せみ》鯨、北極鯨、小形鰮鯨など大分変わった種類があり、すなめり[#「すなめり」に傍点]、いるか[#「いるか」に傍点]、さかまた[#「さかまた」に傍点]などがその親戚になっ
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