、二十日ばかりの月が寒い光を水際の巌の上へさし込んできた。
月の光を浴びて、巌の上へ映し出されたのは、一頭の巨猿であった。万太郎猿が、病める相俣の淵の岩魚を見舞いにきていたのだ。
上越国境を、東から西へ縦走する三国山脈、この山脈の東端から南会津の方へ向かって続く万太郎山、谷川岳、茂倉岳、朝日岳、兎岳、牛ヶ岳、八海山、中の岳、駒ヶ岳、銀山平など、奥上州の裏側に並ぶ越後国南魚沼の山地には、昔から野猿の大群が棲んでいた。ところで、この猿の大群を支配するのは、谷川岳のすぐ西に隣る万太郎山の裏側、越後に向かった高い崖に棲む齢も知らぬ老猿である。つまり、上州と越後に連なる奥深い山岳地帯は、この巨猿の縄張りであるのだ。上越の猟師も出羽の方から稼ぎにくる猟師も、折々この老猿を遠く高い岸の上に見ることはあるが、猟師共はこの猿を万太郎猿と呼んでいる。そして、誰もが申し合わせたように、この猿に筒先を向けぬことにしてきたのである。
老猿の後頭から首筋、背へかけての毛は金茶色に光っている。
さきほどから猿は、片割れ月のかげを浮かべた淵の面を、丸い大きな眼で覗き込んでいる。しばらくすると、淵の中層に黒い雲に似た彩が動き、やがてそのかげが淵の面に映した月の光を乱すと同時に、朦朧として水上に女の姿が立った。岩魚の精。
水の上を水際に近づいてくる女の容を見ると、初夏のころには露ほどもなかった窶《やつ》れが、頬や肩のあたりに現われている。この窶れのためか、相俣岩魚の姿は、ひとしお妖しく美しい。
この姿を見て、老猿は微笑んだ。
「ちかごろ、具合はどうじゃの」
と、巌の上から水際の岩魚に問うた。
「はい、ありがとう存じます」
緑の黒髪が、水際の小波にゆらゆら揺れる。
「焦ってはいかんな、あははは」
老猿は、高く笑った。
「でも――」
岩魚の精は、羞《はずか》しそうな姿態をつくったのである。
「気を揉んだところで、時節がめぐってこなければ駄目じゃちうのは、お前さんも承知じゃろうがな」
「さ、それはそうですけれど――」
「あれはどこへもいけない人間じゃ、必ずお前さんの懐《ふところ》のものになるのは分かっているじゃろう」
老猿は、慈心に富んだ表情で巌の上から岩魚を見下ろしているのである。魚精は痩せた顔に澄んだ眼をあげ、老猿を仰いだ。
「石坂の家は先祖代々、息子が嫁を迎え、その嫁が一人の子供
前へ
次へ
全14ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
佐藤 垢石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング