信州ではザザ虫と呼んでいるのだ。このザザ虫は、魚の餌になるばかりでなく、人間の餌にもなるのだから、妙だ。
 信州では、ザザ虫を佃煮にこしらえて、それを肴にすると、酒がひどくおいしいといって甚だ賞味する。君も酒が好きだから、こんど上京するとき持って行ってやろう、ザザ虫の佃煮を肴にして、一杯やり給えと、甚だ悪もの食いめいたことをすすめるのだ。私は初耳なのである。
 それから間もないことであった。博士に信州高遠の桜見物に誘われた。四月の二十日ごろであった。友人三、四人と共に、高遠公園の桜を眼の前にして、公会堂の楼上に卓をかこんだ。高遠の有志から、酒と重箱の贈りものがあった。酒は仙醸と呼んで、まことに芳醇である。重《じゅう》のなかは肴であるそうである。やがて、博士は重箱の蓋をとった。みると、先だっての話の、ザザ虫の佃煮だ。ザザ虫ばかりではない、川|百足《むかで》もいる。生きているときは青黒い色をして、長さ五分くらい。胴が丸く嘴の長い瀬虫(トビゲラ)と称するグロの虫まで、佃煮になっているではないか。
 博士は、まずザザ虫の佃煮を箸でつまんでから、徐々に説きだした。諸国の川には、至るところにこのザザ虫はいるであろうが、まず天瀧川に産するザザ虫の味を第一等とする。この重箱に入っているのが、すなわち天瀧川のザザ虫である。佃煮にこしらえば人間の餌となるものを、魚の餌として捨ておくのはもったいない。
 次に、この川百足に至っては珍中の珍だ。肉に濃淡の風味を持ち、歯切れがなんともいわれないのである。瀬虫の旨味、わが天瀧河畔の人々でなければ、知る者はあるまいと思うが諸君、騙されたと思って酒の肴に一箸やって見給え。一度味わったら、終生忘れ得られるものではない。と、大した効能書である。
 私も田舎の育ちであるから、昆虫食については、まるで無知というわけではないのだ。子供のときから、蝗《いなご》はふんだんに食ってきた。蜂の子も珍重した。また赤蛙の照り焼きは、牛肉よりもおいしいと思ってきたのである。
 けれど、川に棲む虫は初見参である。なかなか手が出ない。秋田県地方の人々は、姫|柚子《ゆず》などよりも大きい源五郎虫を、強精剤として貪り食うというから、ザザ虫や川百足など、姿の小さいものは恐るるに足るまいと思うが、理屈は抜きにして、ちょっと手が出ないのだ。
 まことに、風流の心なき人々ではある。と、嘆
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