眺めである。秋も終わりに近づいて、そろそろ稲の収穫がはじまろうとするころ、荒船山の南方と、秩父山の西北との遠い遠い空に、雪の連山が生まれたように浮いて出る。
この連山は夏から秋の半ばころにかけては、あたりの群山に紛れて、全く人々の注意を惹かないのであるけれど、上州の平野から眺める四囲の山々で、最も早くこの連山に雪がくるので、はじめて晩秋の農民の眼に映るのである。我々平野の人々は、昔からこの遠山の名を知らなかった。
ただ村人は、あれは信州か甲州の奥山であろうと思っていた。
ところで、あの遠い山をはじめて甲州の八ヶ岳であると断定したのは、私であった。それは私が登山に趣味を持つようになって、甲州や駿河信州の飛騨の山々を歩きはじめた今から三、四十年前のことであった。甲州の甲府の南方釜無河畔から眺めた八ヶ岳と、ある年の晩秋、上新田へ帰省して、西南の遙かな空にあの白い奥山を望んだとき、形の大小遠近こそあれ、全く姿が同じであったので、あれは八ヶ岳であったかと、多年の謎が解けたのである。
赤岳を主峰として八つの嶺が序列正しく白い新雪を冠り、怒れる猛獣が銀の牙を天に向かって剥《む》きだしたに似た姿を遠望したとき、真に凄寒を催さざるを得ない。折柄、秋風空中を掠《かす》めて稲刈る人の指先が、ひとりでにかじかむ。
八ヶ岳の雄容はひとりわが上新田ばかりから望めるのではない。高崎市に近い佐野村を通過する信越線の汽車の窓からも前橋公園の桜の土手からも、はっきり眺めることができるのだ。
四月の半ば、桜の花が散るころ、わが故郷には西南の微風が齎《もたら》した細雨が、しとしとと降ることがある。この雨雲はあの遠い甲州の奥山から送ってくるのであると、里人は言い伝えた。西南の遠い山から吹いてくるこのやわらかい微風は、糟のように細かい雨と共に、駿河大納言が詰腹を切った高崎の鐘の音も雲に含んで伝えてくる。
こうして春の夕、大信寺の鐘の音が、わが村に響いて、余韻が消えなんとするとき、村の末風山福徳寺の鐘が、人の撞《つ》かぬのに大信寺の鐘に応えるが如く、自ら低く唸り咳くのである。この話は、象徴的な興味深いところがあるけれど、語りだせば余りに長くなるから、ここでは山の姿のみを眺めて、別の機会に譲りたいと思う。
八ヶ岳の左手に、いつも濃紺の肌の色を、くっきりと現わした円錐形の高い山が、つつましき姿で立っているのを見いだすであろう。それはやはり甲州の金峰山だ。金峰山は、なんとみめかたちよい山か。
標高八千尺というから、むろん秋から初夏にかけ、白い雪を頂いているのであろうが、四季濃紺の色に肌を染めているのは、わが村から眺める光線の角度によるのかも知れぬ。お隣の瑞垣山は、いずれかの山のかげに隠れて、面をださない。
それから東に眼を移すと、近くは上州北甘楽の稲含山、多野の西御荷鉾山、東御荷鉾山。遠くは武州と甲州にまたがる奥秩父の連山が、十重二十重に霞の奥の果てまで連なっている。近きは紫紺に、遠きは浅葱《あさぎ》色に、さらに奥山は銀鼠色に。
甲武信か国師か雁坂か、武甲山か三峰か、いずれがどれとも名は分からないが、奥秩父の高山が東へ向かって走ったその奥遙かに、奥多摩の雲取山が銀鼠色に、淡く煙って見える。太い平らな胴を台にして、熊の爪のように並ぶ三、四の小峰は、あれは雲取山の頂に違いない。
これで、上州の平野から眺望する四辺の山々に、眼を一巡させたが、秩父の連山はさらに東南へ低く伸びて、武州児玉郡か北埼玉郡の草野のなかに、裾を没している。
そこはもう、広茫たる関東平野だ。秩父山の消えるところと、野州の連山の消えるところのわが村から指して東南の一隅には、全く山を見ない。夏は、その地平線から白い雲が湧き、冬は灰色の浮雲が、その地平線に吸い込まれて行った。
上州の東南地方から武州、下総国かけて一望、眼を遮るもののない大平野である。一つの小山もなく、青い田と畑が、際限なく押し広がっている。この平野の尽くるところの海辺に東京の街がある。前橋から二十八里。
大正十二年九月一日の夜、大震災の火の手はいよいよ逞しく、東京の下町を殆ど焼き尽くしたが、天を焦がす猛火の反映が、燃ゆる雲となってむらがり立ち、関東平野の西北端にある赤城と榛名の麓の村々からも、東南の水平線に怖ろしきばかりに見えたのである。
東京も永い年月住んでみれば、万更いやなところでもない。こうして、お膝元を離れ麦田と桑畑に囲まれた農村へ帰り住むと、白雲が流れる東南の方、都の空がなつかしくもある。
私の、上新田の茅舎《あばらや》は、利根の河原へ百歩のところにある。朝夕、枕頭に瀬音の訪れを聞くのは、子供の時からの慣わしである。利根川なくして、私の人生はないようなものだ。四季、さまざま想い出の水が流れる。初夏には、母や姉
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