なり、その裾を熊野灘に浸《ひた》そうとする肩の辺にあってなお標高二千五百尺。随分難路を重ねた高い峠だ。
 大台ヶ原を中心とした深い天然林は、昔から猪の産地で、ここの猪は味において国内随一であるときいていた。これにつぐのが伊豆の天城山、丹波の雲ヶ畑、日向の霧島山あたりで猟《と》れるものであるそうだが、紀州の猪が最も味がよろしいというのは、ここが団栗《どんぐり》林に富んでいるからであると言う。団栗は、楢《なら》の木に実るのが第一に粒が大きく次が椚《くぬぎ》、樫《かし》という順になる。猪は団栗が大好物で、楢の実をふんだんに食った奴こそ、猪肉の至味として人々から珍重されているのである。
 折りから八月の末近く南国とはいいながら、車の窓に輾転する峠の山々にどこか秋の気が忍び寄って、山骨を掩う木の緑の葉も、艶彩のさかりを過ぎていた。やがて、遠からず団栗も色づいて、猪の肉を肥やす季節がくるのであろうなどと、まことにのんきなことを考えながら、峠のてっぺんの茶屋の縁台に梨子を噛って、四方の風景にながめ入った。
 ところが私は、大した事件を発見した。それは矢の川峠を下って、尾鷲駅から汽車に乗るとき買った大
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