ます。気の利いた仲働《なかばたらき》が、印《しるし》ばかりの酒を出したようです。家の中では、旧《ふる》い書生たちまで集って来て悦びをいいます。祖母は気丈な人でしたけれど、お辞儀をしただけで、涙ばかり拭《ふ》いて、物はいわれませんかった。私はそれを見て、同じように涙が止りませんでした。父はにこにこして煙草《タバコ》を吸われるだけ、盛《さかん》に話すのは次兄一人です。
やがて私は、家の車で送ってもらって帰りました。その頃|小金井《こがねい》は東片町《ひがしかたまち》に住んでいました。始めは弓町《ゆみちょう》でしたが、家主が、「明地《あきち》があるから」といって建ててくれたのです。弓町では二棟借りていました。国許《くにもと》から母と妹とが来たので狭くなったからです。東片町は畠の中の粗末な普請です。庭先に大工の普請場があって、終日物音が絶えません。新築がつぎつぎに出来るためでしょう。向い側には緒方正規《おがたまさのり》氏が前から住んでいられましたが、そこはお広いようでした。その頃郵便局のあった横町から這入《はい》るので、左へ曲ると行止りになる袋小路《ふくろこうじ》でした。小金井はアイヌ研究のために北海道へ二カ月の旅行をして、この月六日に帰ったばかり、それで十日からは授業を始めますし、卒業試問もあるというのです。その頃はそんな時に試験があったのでした。その準備もせねばならず、北海道からは発掘した荷物が来るのですから、繁忙を極めていました。
その頃の東片町は、夜になると寂しいところでした。私の部屋のある四畳半は客間の続きですが、雨戸なしの硝子《ガラス》戸だけでした。いつか雨続きの頃、主人は会があって不在の晩、静かに本を読んでいる内に夜が更《ふ》けました。ふと気が附くと、窓の前でペタッ、ペタッという音がします。何かしら、と首を傾けても分りません。暫くすると、また音がします。高いところから物の落ちる音ですが、それが柔かに響くのです。気味が悪いけれど、思切って硝子戸を少し開けて、手ランプを出して見ましたら、やっと分りました。それは大きな蝦蟇《がま》が窓の灯を慕って飛上り、体が重いのでまたしても地面に落る音なのでした。蹲《うずくま》ってこちらを見る目が光っています。翌日早速厚い窓掛を拵《こしら》えました。その家は、私どもが引移った後には長岡半太郎《ながおかはんたろう》氏が長く住んでいられました。
話が脇路《わきみち》へ反《そ》れました。兄は帰朝後、新調の車で毎日役所へ通われます。私は閑《ひま》があれば兄を訪いました。私への土産は、駝鳥《だちょう》の羽を赤と黒とに染めたのを、幾本か細いブリキの筒へ入れたのです。御出発なさる時に『湖月抄《こげつしょう》』と本間《ほんけん》の琴とを買っていただきましたから、「もう十分ですのに」とは申しましたが、若い時ですからやはり喜びました。その羽を覚《おぼ》つかない手附《てつき》で帽子に綴《と》じつけなどしました。
そうして九月もいつか二十日ほど過ぎた或日、独逸《ドイツ》の婦人が兄の後を追って来て、築地《つきじ》の精養軒《せいようけん》にいるという話を聞いた時は、どんなに驚いたでしょうか。婦人の名はエリスというのです。次兄がそのことを大学へ知らせに来たので、主人は授業が終るとすぐ様子を聞くために千住へ行ったという知らせがありました。さあ心配でたまりません。無事に帰朝されて、やっと安心したばかりですのに、どんな人なのだろう。まさか詰らない人と知合になどとは思いますけれど、それまで主人の知己の誰彼《だれかれ》が外国から女を連れて帰られて、その扱いに難儀をしていられるのもあるし、残して来た先方への送金に、ひどくお困りなさる方のあることなども聞いていたものですから、それだけ心配になるのでした。
夜更けて帰った主人に、どんな様子かと聞いて見ても、簡単に分るはずがありません。ただ好人物だというのに安心しました。事情も分ったらそれほど無理もいうまいとの話に頼みを懸けたのです。
それから主人は、日ごとというように精養軒通いを始めました。非常に忙しい中を繰合せて行くのです。次兄はまだ学生ですし、語学も不十分です。兄は厳しい人目があります。軍服を著《き》て、役所の帰りに女に逢《あ》いには行かれません。それに較《くら》べると主人は気楽ですから、千住では頼《たよ》りにして、頻《しき》りに縋《すが》られます。父は性質として齷齪《あくせく》なさいません。どうにかなるだろうくらいの様子でしたが、母は痩せるほどの苦労をなさいました。何しろ日本の事情や森家の様子を、納得の行くように、ゆっくり話さねばなりません。かれこれする内に月も変りました。
その頃の主人の日記に、「今日は模様|宜《よろ》し」とか、「今日はむつかし」などと書いてあります
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