好みました。そんな時兄も相伴《しょうばん》をなさいますが、「自分には中串《ちゅうぐし》を」と必ずいわれました。あまり好物ではないらしいのです。
 牛乳だけはお嫌いのようでした。その頃はまだ手軽にコーヒーも手に入らず、毎朝の出勤前にお飲みになるようにと母がいろいろ苦心をなすって、ブランデーを入れて見たり、砂糖と葡萄酒《ぶどうしゅ》とを入れたりなすってもあまり召上らず、お出かけの跡に色の附いた牛乳が、お机の傍に手附かずにあるのでした。
 弁当の握飯《にぎりめし》のことはいつも話に出るのですが、毎朝母がそれを作られるのを見ますと、焚《た》き立《たて》の御飯を手頃の器に取って、ざっと握って皿に置きます。それに味附けした玉子を入れるのですが、その玉子の中に花鰹《はながつお》を入れます。醤油《しょうゆ》ばかりで、砂糖は殆《ほと》んど使いません。玉子はあまり強く炒《い》らずに、前に結んである握飯の間に挟んで結び直します。始めになぜ器に取るかといいますと、熱いのと、一定の量にするためとです。握飯はいつも二つでした。一つには玉子を、今一つにはめそ[#「めそ」に傍点]を入れます。めそ[#「めそ」に傍点]のことは人があまり知らずに、小魚などといいますが、鰻のごく細いのです。それは肴屋《さかなや》でなくて、八百屋《やおや》が持って来ました。開いて串に刺して、白焼《しらやき》にしてあるのを辛味《からみ》に煮て入れますが、いつまでも飽いたといわれませんのは、きっと油濃くないからでしょう。見ている私は浅草海苔《あさくさのり》をざっと焼いて、よいほどに切って、握飯を包むのでした。何かの都合でお弁当が残った日などは、弟が喜んでいただきました。
 野菜は夏がよいので、茄子《なす》、隠元《いんげん》など、どちらも好まれますが、殊《こと》に豌豆《えんどう》をお食べになるのが見ものでした。高村光太郎《たかむらこうたろう》氏も、随筆で見ますと、豌豆を好まれるようですが、自炊なさるので、筋を取って塩茹《しおゆ》でにしたのを、油や酢で召上るのだそうです。兄のは少し実の入った方がよいので、筋は全く取りません。取れば実がこぼれますから。それを味よく薄目に煮たのを、壺形《つぼがた》の器に入れて膳《ぜん》に乗せます。その豌豆の茎を撮《つま》んで口に入れ、前歯でしごいて、筋だけを引出します。幾度か繰返して、筋だけを器の端に順よく並べられますのを、松葉のようだと、いったものでした。膳の傍には、いつも濡《ぬ》れた布巾《ふきん》があります。指を拭《ふ》くためです。尤《もっと》もこれは壮年の頃のことで、晩年はどうでしたか知りません。日常の食事の時などは傍にいたことはありませんかったから。
 茄子はお好きだったようで、どんなにしたのでも召上りますが、炭火のおこった上に、後先《あとさき》を切って塩を塗ったのを皮のままで置き、気を附けて裏返します。箸《はし》を刺して見て、柔かに通るようになりますと、水を入れて傍に置いた器に取ります。程よく焼けて焦げた皮をそっくり剥《は》ぎ、狐色《きつねいろ》になった中身の雫《しずく》を切って、花鰹《はながつお》をたっぷりかけるのですが、その鰹節《かつおぶし》や醤油《しょうゆ》は上品《じょうぼん》を選ぶのでした。
 大きくて見事な茄子のある時は亀《かめ》の甲焼《こうやき》にします。これは巾著《きんちゃく》などというのでは出来ません。まず縦に二つ割にして、中身に縦横|格子形《こうしがた》に筋をつけ、なるべく底を疵附《きずつ》けぬようにして、そこへ好《よ》い油を少し引き、網を乗せた炭火にかけ、煮立ち始めると、蒂《へた》を左の指で持って、箸《はし》で廻りからそろそろ剥《はが》します。皮を破らぬようにするので、割合に早く煮えるものです。そこへ花鰹、醤油、味醂《みりん》などを順々に静かに注いで仕上げます。そっくり皿に取りますが、それを剥しながら食べるのがお好きでした。若い人たちは、お舟だといって皮をも食べます。
 全体に食物は、油濃いものの外は、あまり註文《ちゅうもん》をおっしゃらないので、いつでしたか歯が痛むといって、蕎麦掻《そばがき》ばかりを一カ月も続けられたのには皆|呆《あき》れました。
 小倉《こくら》在勤中は、田舎の女中ばかりでさぞ食物に困るだろうという母の心配から、註文のままに品物を送るのでした。それは醤油の樽《たる》――田舎は醤油が悪いそうで――とか、鰹節とか、乾海苔とかですが、品物は皆選びました。冬は好物だというので、鴨肉《かもにく》の瓶詰を家で作るのでした。私の主人が聞いて、もっと何かないかね、というのでしたが、人々の嗜好《しこう》ですから仕方がありません。私はよく牛の舌を送りました。薄く切って食べるのです。皮ごと塩で長く煮込むのですから、寒中などはよく持ち
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