。郷里の若い娘の勤口《つとめぐち》の世話を頼まれましたが、幸いに知人に電話交換局の人があって、そちらへ世話をしてくれました。交換手なのですが、先方へ線を繋《つな》ぐ時、声が漏れて来るのを耳にしますと、お嬢さんが友達を誘って遊びに行く打合せをしたりするのを、田舎者だものですから、大胆なことかのように来て話すのでした。
 兄の家では、役所との関係もありますので、大分早く引かれましたが、先方からかかって来れば格別、あんまりお使いにはならなかったようでした。万年筆がお嫌いだったように、新しいものはあまりお好きではないのです。そういう点ではかえって母の方が進んでいて、「そちらに電話がないと不便だから引いておもらいなさい。私が病気になった時に、早く知らせたいと思うから」などといわれました。
 兄は電話での応対なども下手《へた》でした。電話へ出ると、平常と違った切口上《きりこうじょう》になるのでした。兄は数学というものが不得手なので、電話番号が覚えにくいらしく、何かの字を当てて覚えようとなさいます。譬《たと》えば親戚や自宅の電話番号なども、六七四というのを空(むなし)と覚えるという風で、自宅の二五七九を、「太藺(ふとい)と七子(ななこ)だ。織物二つで覚えいいだろう」などといわれましたが、余人にはそれもむつかしいというので、後には「藤色七子」と赤い紙に書いたのが、電話器の下の柱に貼《は》られたようでした。ですから時に番号が変りでもしますと、それはそれは苦い顔をなさいました。
 いつでしたか、夜分《やぶん》になって尋ねましたら、お嫂《ねえ》さんはお留守です。まだ小さかった類《るい》さんは病気で寝ていました。ちょっと話していますと、電話のベルが頻《しき》りに鳴ります。女中が出ますと長距離らしいのです。取次いでも、兄は頭を振るだけで、出ようとなさいません。行合せた私が出て見ましたが、よその家のことですから、はっきりしたことはいわれません。「どうしましょう」と伺いますと、「捨てておけ」とおっしゃいます。電話はいよいよ鳴ります。その頃いたつるという若い女が出て、何とかいって切ったようでした。お嫂さんはどこかへお出かけで、その晩はお帰りにならないのですが、さすがに類さんが心懸りで、様子を問おうとせられた電話なのでした。そんなことはよくあるのだそうで、何だかお気の毒で、早々にお暇《いとま》しましたが、帰りしなに勝手へ出て女中に聞きましたら、「行くなとおっしゃるのに、お出かけになったのです」と、女中も不服そうでした。類さんは熱があるらしく、その枕元《まくらもと》で兄の何かと慰めてお出《いで》の声が聞えます。こんな時には皆困ったことでしょう。
 このつるというのは、まだ若いのに、無口で、寂しい顔立ちをした女でした。やかましく叱られても口答《くちごたえ》もせず、いつもいいつけられた通りに牛乳瓶の消毒などをしていました。何か面倒な家庭の子でしたろう、暫《しばら》く世話になっていたようでした。
 その頃私の家には、どこからか迷って来た鳩がいました。近くの白山《はくさん》神社の群から離れたのかも知れません。それがよく馴《な》れて、卵をかえしたり、雛《ひな》をはぐくんだりします。それを見せるといって、類さんを連れて来ました。そんな時はつるも楽しそうで、晴やかな笑顔をしていたのですが、するとそこへ、「早くお帰りなさい」という電話です。「遊び過ぎました」といって、急いで帰る時の女の顔は、いつものように寂しそうでした。
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   建碑式

 七月九日の鴎外の命日に、詩碑の除幕式があるという通知を受けて、団子坂へ行きました。だんだん年を取るので、孫に連れて行ってもらいます。車で大観音の前を通りますと、四万六千日《しまんろくせんにち》だというので賑《にぎや》かです。三十幾年前もこんなだったと思います。今か今かというような、兄の容体を案じながら通った時の気持が思出されます。その頃の大観音の高いお堂は焼け失《う》せて、今は何か小さな物が建っているだけで、ここにも世の変遷が見られます。森の家も、いかめしかった門は影も形もありません。毎朝兄が出勤せられる時、馬丁が馬を引いて来るのを佇《たたず》んで待っていられた軍服姿が思出されます。
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駒《こま》ひくをまつ朝戸出《あさとで》の手すさびに
    折りてぞ見つる梅の初花
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 明治四十年頃の歌です。その梅なども、もとよりありません。昔駒寄せのあった向側に机を並べて、来会者に記名させる人々が待っています。筆を持ちますと、知人の名が目に附いて、もう来ていられるな、と思います。
 そこら一杯に人の並んでいられる傍を通って前の方へ出ますと、於菟《おと》さんが笑顔で立っていられます。今日の式ま
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