になります。
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拝読。良精君近頃健康|不宜《よろしからず》候こと承候へども、仰《おおせ》のとほり存外険悪に及ばずして長生せられ候事も可有之《これあるべし》と頼み居候。又々牛の舌御恵贈の由、不堪感謝《かんしゃにたえず》候。翻訳材料となるべき書籍二三、別紙に認《したた》め上《あげ》候。南江堂に可有之候。『明星《みょうじょう》』は当方へも新年に投稿|可致旨《いたすべきむね》申来候。然し何も遣《つかわ》すべきものも無之候。近頃井上通泰、熊沢蕃山《くまざわばんざん》の伝を校正上本せしを見るに、蕃山の詞に、敬義を以てする時は髪を梳《くしけず》り手を洗ふも善を為す也《なり》。然らざる時は九たび諸侯を合すとも徒為《とい》のみと有之候。蕃山ほどの大事業ある人にして此言始めて可味《あじわうべく》なるべしと雖《いえども》、即|是《これ》先日申上候道の論を一言にて申候者と存候。朝より暮まで為す事一々大事業と心得るは、即|一廉《ひとかど》の人物といふものと存候。偶々《たまたま》感じ候故|序《ついで》に申上候。荒木令嬢の事、兎《と》も角《かく》も相迎《あいむかえ》候事と決心仕候。併《しか》し随分苦労の種と存候。夜深く相成候故|擱筆《かくひつ》仕候。草々不宣。
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    十二月五日[#地から3字上げ]林太郎
   小金井きみ子様
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   賀古氏の手紙

『冬柏《とうはく》』の昭和五年十月号の消息欄に、賀古鶴所《かこつるど》氏が与謝野《よさの》氏に宛《あ》てた、次のような手紙が出ています。
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『冬柏』第七号の消息中に、月夜の村芝居、向島奥の八百松《やおまつ》に催した百選会の帰るさに、月の隅田川を船にて帰られたくだりを拝読して、今より五十年余り昔の事を思い出《い》でました。それは同学中に緒方という温厚な少年がありました。月の夜に柄になく散歩を誘いに来ました。そのまた兄さんは月に酔う人で、或秋の夜に兄弟|両人《ふたり》して月に浮かれて、隅田川より葛飾《かつしか》にわたり、田畑の別なく、ひと夜あるき廻り、暁に至りケロリとして寄宿舎に帰って来たことがありました。独逸《ドイツ》にてかようなのを Mondsucht と称しますが、敢《あえ》て精神病には数えませぬ。月に魅せられて、ついうかうかとさまよい出て、市中または林間田野を歩き廻り、覚えず溝川《どぶがわ》に落ち入り、折々は死ぬるものもあるとか聞きました。緒方が月の夜に見えぬと、「またモントズクトか」といったことがありました。緒方のいうには、「月夜に散歩していると、何となくよい気持になり、つい夢心持になって歩き廻るのさ。事は違うが、チャンの阿片《あへん》に酔うた心持もこんなものかしら。」(月狂生)
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 その前に添えてある与謝野晶子氏の文に、「私が前号のこの欄に月見の事を書きましたら、賀古鶴所先生から早速興味あるお手紙を頂きました。私信ですけれども差支《さしつかえ》がないと思いますから次に載せます。文中の緒方氏は森鴎外先生の「雁《がん》」という小説の中に「岡田」という姓で書かれている医学生です。独逸の留学から帰って早く歿《ぼっ》せられましたが、明治医界の先輩で、今の大阪の緒方医学博士の御一族です」としてあります。
 右の賀古氏の手紙は、私にも興味が深いのですが、その中には不審の点もありますので、春にでもなったらお目にかかって、伺って見たいと思っています内に、翌六年の元日の午後、賀古氏は急逝せられて、そのことも出来なくなりました。
 賀古、緒方の二氏と兄とは、学生時代三角同盟といわれて、いつも行動を共にするのでしたから、お二人とも向島や千住の家へも来られ、泊りなどもなさったので、皆お親しくしていました。いつでしたか、緒方氏が有馬《ありま》土産だといって、筆の柄を絹糸で美しく飾ったのを下すったのが、ひどく嬉《うれ》しかったことを忘れません。そんなわけで、自然家庭の御様子なども知りました。賀古氏は四角な赭《あか》ら顔の大男でしたのに、緒方氏は色のあくまでも白い貴公子風の人でしたが、親孝行なのがよく似ていられました。「雁」に書いてある岡田という青年は、オカダ、オガタという音が似ていますから、その人のようにも取れますが、これは兄の理想とする標準的な青年を写して見たのでしょう。実は「雁」よりも、「ヰタ・セクスアリス」に書いた児島十二郎というのが緒方氏そのままです。卒業の宴会が松源《まつげん》という料理屋であった時、下谷《したや》一番といわれる美しい芸者の持って来てくれた橘飩《きんとん》を、その女の前でゆっくり食べていたというのがその頃の語り草となっていて、幼かった私の記憶にもそれが残っています。
 緒方氏の本名は収二郎ですが、
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