も見なかった、人のよいエリスの面影が私の目に浮びました。
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   いさかい

 門を静かに開けて、敷石を踏んで玄関にかかると、左は勝手へ行く道、右の荒い四つ目垣の中は花畑ですが、すがれ時《どき》で目に附く花はありません。格子戸《こうしど》の中では女中が掃除をしていました。
 ふと早口の甲高《かんだか》い声と、静かな諭《さと》すような声が聞えます。こんなことがあるとは聞いていましたが、今が初耳でした。立って行こうとする女中を、手を振って止めて、「用事があって来たのではないのだから、取次がないで下さい」と小声でいうと、女中も心得たもので、そのままそこにいました。足音を忍ばせて門を出るまで、声はまだ聞えていたようでした。
 門前は人通りもあり、車も往来しています。今そんな道を歩く気はしないので、すぐ向いの小路に這入《はい》りました。そこらの屋敷町をうねりうねり行って、薔薇新《ばらしん》の前を通ります。あまり人通りはありません。
 歩きながら考えました。何のことか知りませんが、私にはただお兄様がお気の毒でなりませんかった。今日は土曜日ですから、昼前はお役所でしたろう。夜はまたきっと何かの会でしょう。それでなくても、いつも書きものは溜《たま》ってお出《いで》なのですから、大事な時を潰《つぶ》すというばかりでなく、そのお気持の悪さを思いやって、お機嫌の悪い時のお兄様の俯向《うつむ》いた額に見える太い脈を思浮《おもいうか》べるのでした。
 がやがやいう子供たちの声を耳にして、気が附きますと、少しの明き地に大勢集って、地面に白墨で何か書いて遊んでいたのを、うっかり踏んでしまったので、「御免なさい」と詫《わ》びました。
 吉祥寺《きっしょうじ》の横手の門まで来ると、かなりな家の葬式でもあるのでしょう、今日は開放《あけはな》しになっていて、印半纏《しるしばんてん》の男たちが幾人か立廻っていますし、人込《ひとごみ》を透かして、参道の左右に並べた造花や放鳥らしいものがちらちら見えます。通りへ出ると、表門の前には車が並んで、巡査が交通整理をしているようです。通りを横切って曙町《あけぼのちょう》に這入ります。会葬者らしいのがまだ続いて、寺の門へ向って行きます。左側に大きな材木屋があって、種々の材木が高々と並んでいます。人の噂には、もとこの辺で草取をしていた老婆があって、それが貯
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