、訝《いぶ》かし気《げ》に覗《のぞ》きましたら、「これは貫名海屋という人の書で、南画の人だけれど、書にも秀れているのだよ」と教えられたのです。
こんな話を聴かされますと、私も何だかそれが気に入って、飽かず見詰めるのでした。
狭い床でしたけれど、そこには時々変った幅が懸けられます。奥原晴湖《おくはらせいこ》の密画の懸けてあったこともあります。晴湖は明治の初めに東京に出て、下谷《したや》に住んで、南画の名手として知られた女の画家でした。佐藤応渠《さとうおうきょ》の半切《はんせつ》もありました。
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むかしたが思ひつくまの神まつり
よきに似よとの教なるべし
かぐ山の岩戸の桜|匂《にお》ふなり
神世人の世隔てざるらむ
おかるゝは命ならずやとられつゝ
時にあふぎの危《あぶな》かりけり
(扇)
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かような歌を覚えています。家へ来て沢山書かれたのでした。
野之口隆正《ののぐちたかまさ》、福羽美静《ふくばびせい》などもあったのは、同郷の先輩のためでしたろう。福羽氏のは仮表具で、私が伺った時に書いて下すったままでした。
話が外《そ》れましたが、右の海屋の幅は割に長い間掛かっていました。
「これは茶掛《ちゃがけ》によかろうと思うが」と、或る時お兄様がいわれます。
「お兄様も、お茶をお始めになりますの。」
「いや、石黒《いしぐろ》氏がお茶をなさると聞いたから、あげようかと思って。」
石黒|忠悳《ただのり》氏はその頃の長官でした。茶器は昔から古物を尊び、由緒ある品などは莫大《ばくだい》な価額のように聞きましたのに、氏は新品で低廉の器具ばかりを揃《そろ》えて、庵《あん》の名もそれに因《ちな》んで半円とか附けられたとかいうことでした。きっとそれが気に入って、お贈りする気になったのでしょう。
お兄様はそれを持って出て、庭にいられたお父様に声を懸けられました。
「お父様、これをいただいて行きますよ。」
「あゝあゝ、持ってお出《いで》なさい。」
盆栽に見入って、振返りもなさいません。お父様は石州流のお茶をよくなさるけれど、書画には一向趣味をお持にならないのでした。
お兄様は何と思われたのか、勤めへお出かけに、「今度石黒さんへ行く時、お前も連れて行こうね」とおっしゃいました。そうしたら
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