、誰が蔵へはいって始末したのでしょう。あれだけあった『古典全集』が幾らもありません。『文学全書』『歌学全書』など、たびたび見る本は、表紙が破れるので綴じかえて、上にそれぞれ書名を書いて置いたのですが、それも同じことで、幾冊か残っているだけでした。ただ奇蹟とでもいうように、『湖月抄』の本箱だけは無事でした。暗い蔵の中の下積みになっていたので、ただの古本の箱と思って見捨てられたのでしょう。
その後また幾年も経過して、烈しい世の中の動きにつれて、住所も安定しませんので、いよいよ老耄《ろうもう》した私は、焼け残った本を少しずつ持って、あちこち流転を続けています。
[#改ページ]
落丁本
小石川《こいしかわ》の白山《はくさん》神社の坂を下りて登った処は本郷で、その辺を白山|上《うえ》といいます。今残っている高崎屋の傍から曲って来て、板橋《いたばし》へ行く道になります。農科大学前の高崎屋は昔江戸へ這入《はい》った目印で、板橋で草鞋《わらじ》を脱いでから高崎屋まで、いくらの里程と数えたと聞きました。
白山上は団子坂《だんござか》から来た道、水道橋《すいどうばし》から来た道、高崎屋の方から来た道と、三つが一緒になって板橋へ延びています。そこの角の万金という料理屋は大分古いので、昔東北の方から来る人たちは、そこで支度でもしたのでしょう。様子は変っても、戦災前までありました。これは近年のことですが、その万金の側に食料品屋が出来て、屋根一ぱいの看板をあげたのが浅田飴《あさだあめ》の広告で、「先代萩《せんだいはぎ》」の飯焚場《めしたきば》の鶴千代君《つるちよぎみ》の絵でした。「空《す》き腹に飯」という文句がよく出ていました。実物大といいましょうか、どうもよほど大きいようで、どこでもあんなものは見かけませんが。それが下手な絵なので、見苦しいと思いました。
通りの向いに大丸といって、そこらでの大きな呉服店があって、しっかりした土蔵造りでした。店の前に幅の広い紺の暖簾《のれん》に大丸と染めたのが、いくつか斜に往来へ出ていて、縁にかなりの幅の真田紐《さなだひも》が附いて、石が重りになっていました。その間から這入りますと、番頭が幾人か並んでいて、お客さんはその前へ腰を掛けて買物をするのでした。天井から美しい帯地や反物《たんもの》が頭の上へ下げてあるのは、目新しい品を目に附くようにす
前へ
次へ
全146ページ中20ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小金井 喜美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング