でした。強情だった娘も、さすがに疲れた時だったのでしょう。それから市場にも病家が出来ました。その後その家の前を通る時には、ここが長襦袢の家だと思いました。
市場の近くに、寄席《よせ》がありました。小路《こうじ》の奥まった所で、何といいましたか、その名の這入った看板が往来に出ていました。兄は毎日そこを通られるのです。小さいけれど、三丁目にも寄席はありましたが、近いので、顔見知りの人が多いからでしょう、遠い方の寄席へ行かれます。夜一しきり明日の下調べが済むと出かけられるので、なるべく目立たぬ服装をして、雨が降っても平気です。尤《もっと》も乗物などはありません。
どうしたのか、その寄席へただ一度連れて行って下さいました。入口で木戸番がにっこりして、手磨《てず》れた大きな下足札《げそくふだ》を渡しました。毎朝車で通る人とは知るまいと、兄はいつもいわれますけれど、どうでしょうか知ら。すぐ女が薄い座蒲団《ざぶとん》と煙草盆とを持って来ます。高座に近く、薄暗い辺に座を占めて、すぐ煙筒《キセル》をお出しになります。家では煙筒をお使いになりませんから、珍しいと思って見詰めていました。
あまり人はおりませんでした。落語はそれほど上手ではないようです、私は始めて聴《き》いたのですけれど。一人二人代ってから出て来たのは、打見《うちみ》は特色のない中年の男でしたが、何か少し話してから居ずまいを直して、唄《うた》い出しました。
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小野小町《おののこまち》という美女は、情知らずか、いい寄った、あまたの公家衆《くげしゅ》のその中に、分けて思いも深草《ふかくさ》の少将。
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まあ何んという美声でしょう。薄暗い高座も、貧しい燭台《しょくだい》の光も目に入りません。私はただ夢中で聴きとれていました。なお唄い続けます。
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九十九夜《くじゅうくや》まで通い詰め、思いの叶《かな》う果《はて》の夜《よ》に、雪に凍えて死んだとは、少々ふかくなお人じゃえ。
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楽屋へ引込んだ跡で、やっと気が附いたかのように、そこらの客が一斉に拍手を送りました。
兄は「連れて来てよかったね。もう帰ろう」といって、立上られました。まだ跡があるのでしたが、私もそれで十分と思って、人の間を分けて、下足の方へ出ました。
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