られるのです。何品でしたか、鼠色《ねずみいろ》で一面に草花の模様でした。袖口《そでぐち》だけ残して、桃色の太白《たいはく》二本で、広く狭く縫目《ぬいめ》を外にしてありました。
「ほととぎす殺しという所だね」と次兄のいわれましたのは、後年その話の出た時でした。それは殿の愛妾《あいしょう》ほととぎすを憎んで、後室が菖蒲畑の傍で殺すという歌舞伎狂言でした。立っていたのでインキは流れて裏には沁《し》みず、裁縫の器用な祖母が下前《したまえ》と取りかえて、工夫をして下すったので、また著られるようになりました。
 兄はその時写生をしていられたのです。松に石灯籠《いしどうろう》の三つもある庭を、正面から斜面から、毛筆で半紙に幾枚も画かれたのでした。一枚は貰《もら》って置きましたが、いつの間にか見失いました。遠い昔のお話です。
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   衛生学

 私と兄|鴎外《おうがい》とは年が十ばかり違いますから、物心のついたころは十五、六でしたろう。もう寄宿舍に入っていられました。西《にし》氏のお世話になられたのはその前です。私の記憶には何もありません。母や祖母がお国の話をする時に、梁田《やなだ》、水津《すいつ》、大野などの姓を聞くと、西氏の御親戚《ごしんせき》だと思う位でした。後に私は祖母に連れられて、西氏の三十間堀《さんじっけんぼり》のお家へ泊りに行きました。夫人(石川氏)は佐佐木信綱《ささきのぶつな》氏の歌のお弟子でした。
 西氏が前に家塾育英舍を開かれた時の通規に、「読書はなるたけ黙読せよ。昼日は時ありて朗読すとも可なり。唯隣座の凝念思索の妨《さまたげ》をなすことを得ず」「人の傘笠《さんりゅう》を戴《いただ》き、人の履物をはくことを許さず。紙筆《しひつ》、硯机《けんき》、煙管《キセル》、巾櫛《きんしつ》の類より、炉中の火、硯池《けんち》の水に至るまで、その主の許可あるに非《あら》ずして使用することを許さず」など、事細かなもので、門人ではなくとも置いて戴いて、外に人もいられたのでしょうから、若いお兄様には窮屈だったろうと思います。
 次兄は十一、二歳の頃、漢学を習いに、因州の儒者|佐善元立《さぜんもとたつ》という人の所へ通っておりました。出来がよいと直に特別|扱《あつかい》にされます。或日塾の祝日に本邸から藩主代理として来られた川田佐久馬氏が、次兄の態度が気に入ったとて話を
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