》にお襠《うちかけ》、それらがちらと目の前を過ぎました。御陪乗の人はよく見えません。続くお馬車に、やはり御すべらかしが二人乗っていられました。それからまだ次々と御供が続きます。御小休所は三丁目の中田屋という、北組第一の妓楼の本宅で、店とはすっかり別になっていて、大層立派な建築のように聞きました。
お父様は平生《へいぜい》決して妓楼へはいらっしゃらないのですが、その折は前以て病気の人でもあってはと、お出になったかに聞きました。
「外に場所はないのかねえ」「何だか勿体《もったい》ないような気がする」などと話合いましたが、土地がらだけに、何かある時に勢力があって、指折られるのは妓楼なので、致方《いたしかた》なかったのでしょう。
その頃お兄様は陸軍に出ていられました。極った時間にお帰りなのに、それが後れて、少し薄暗くなって来ますと、私はもうじっとしていられません。通りまで出て、招牌の蔭から往来を見詰めています。そこの角は河合という土蔵造りの立派な酒屋で、突当りが帳場で、土間《どま》の両側には薦被《こもかぶ》りの酒樽《さかだる》の飲口《のみぐち》を附けたのが、ずらりと並んでいました。主人は太って品のいい人でした。後に河合の白酒というのが出来た時に、そこの家かとも思いましたが、聞いても見ませんでした。
その隣りは天麩羅屋《てんぷらや》でした。廻りは皆普通の店ですのに、そこだけが一軒目立っていました。註文《ちゅうもん》でもあるのか、盛《さかん》に揚げて、金網の上に順よく並べているのを遠くから見ていますと、そこへ一人の男が来て、いきなりそれを一つ撮《つま》んで、隣の酒屋へ入りました。店の人は心得たもので、伏せてあるコップをゆすぎ、一つの樽の飲口から小さな桝《ます》に酒を受けて、コップに移して渡します。立った男は天麩羅を一口食べては酒を一口飲み、見る間に明けて、さっさと出て行きます。私はただ呆れて見ていました。
往来の遥《はる》か彼方《かなた》から、菊の葉の定紋《じょうもん》の附いた提灯《ちょうちん》がちらと見えますと、私はすぐ家へ向って走ります。けれども車夫は足が早いのですから、とても駈抜《かけぬ》けられないと思った時は、途中にある横道の河合の蔵の蔭に這入って遣り過します。狭い道ですから、人力車が通る時は、傍の垣根にぴったり附いていないでは危いくらいです。門灯の下で車夫は汗
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