ちと、どんなでしたろうと思います。
 十日が岩佐氏の葬送で、その日には大臣は帰京されたのですが、その後はだんだんと御様子が悪く、熱があるとか、舌根が腫《は》れたとか聞きましたが、四月二日についに薨《こう》ぜられました。大臣就任後八カ月ばかりでしたでしょう。
 午後一時に逝かれ、三時には聖上から西郷吉義《さいごうよしみち》氏を見舞として遣されました。大臣長男、軍医橋本監次郎の二人とともに、お兄様は接見なすったのです。その日の来診者は、青山胤通《あおやまたねみち》(東大教授)、本堂恒次郎(陸軍軍医)、岡田和一郎(東大教授)、平井|政遒《せいゆう》(陸軍軍医)の四人でした。四日には石本邸へ通夜に行き、式場接待掛をせられました。大臣の後任は上原《うえはら》中将です。
 月日はただ過ぎゆきます。夫人は御丈夫そうに見受けられ、お子さんも大勢お持ちのようでしたが、暫く立った後に人伝《ひとづ》てに聞きましたら、夫人も御主人と同じ病気でお亡くなりになったそうでした。人の命ほどわからないものはありません。わからないといえば、この四十五年は明治大帝|崩御《ほうぎょ》の年でした。
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   向島界隈

 向島《むこうじま》も明治九年頃は、寂しいもので、木母寺《もくぼじ》から水戸邸まで、土手が長く続いていましても、花の頃に掛茶屋《かけぢゃや》の数の多く出来て賑《にぎわ》うのは、言問《こととい》から竹屋《たけや》の渡《わたし》の辺に過ぎませんでした。その近く石の常夜灯の高く立つあたりのだらだら坂を下りた処が牛《うし》の御前《ごぜん》でした。そこからあまり広くもない道を二、三町行った突当りに溝川《どぶがわ》があって、道が三つに分れます。左は秋葉《あきば》神社への道で割合に広く、右は亀井邸への道で、曲るとすぐに黒板塀《くろいたべい》の表門があります。邸に添って暫く行った処に裏門があり、そこからは道も狭くなって、片側は田圃《たんぼ》になります。川の石橋を渡って、真直といっても、じきにうねうねする道を行くと小梅村で、私どもが後に引移った処でした。石橋に近い小さな家に、早くお国から出て来られたお父様とお兄様(長兄)とが住んでお出《いで》のところへ、お祖母様《ばあさま》、お母様に連れられて、お兄さん(次兄)と私とが来たのでした。お父様はお手医者として、殿様のお供で上京したのですから、ほんとは
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