都大學の學生に教へて居るさうであるが、これは私も全然同感である。寫眞が立體的に奧行きをも寫すのに對して、拓本の平面的なことは一つの短所であらうが、寫眞が實物より小さくなる場合が多いのに、拓本はいつも實物大で、しかも實物とわづかに濡れ紙一重を隔てたばかりの親しみの深い印象を留めて居る。拓本が持つ此強い聯想は到底寫眞の企て及ぶところでない。
話が前へ戻つて繰り返へすやうになるけれども、日本の金石文の拓本のことについて云つてみても、正史であるところの日本書紀の記載に間違ひのあることが、法隆寺金堂の釋迦像の銘文や藥師寺の東塔の※[#「木+察」、第4水準2−15−66]の銘文から知られて來たといふやうなことは、今となつては誰も知る事であるが、此所に一つ面白い例がある。それは私は今、昔奈良の東大寺にあつた二つの唐櫃の銘文の拓本を持つて居るが、其櫃の一つは今は御物となつて正倉院にあるが、他の一方はもう實物は此の世の中から失はれたものと見えて、正倉院にも何處にもありはしない。ところがその失はれた唐櫃の銘文の拓本が私の所にあるといふわけだ。即ちその唐櫃は天にも地にも唯一枚の此拓本によつてのみわづかに存在を續けて居る。そして其銘文によつて、私は、これまで此等の唐櫃に歸せられた製作の時代について、一般學者の推定が實に五六百年も間違つて居たことも斷定し得るのである。實は此唐櫃は本來は二つだけのものでなく、四つあるべきもので、其一ともいふべきものが嘗て大倉氏の集古館に納められてあつたが、あの大震災のために燒けて仕舞つた。他の今一つの唐櫃こそは、長へに失はれて全く行く所を知らないのであるが、何かの機會《はずみ》に、何かの僥倖で、せめて其銘文の拓本でも手に入れるやうなことがあり得たならば、我々の史的研究、ことに東大寺の研究に對して一大光明となるであらう。かう考へて來ると拓本には萬金の値ありといふべきで、しかも其値たるや、斷じて骨董値段ではない。
そこで私は、我が早稻田學園でも、先づ學生が拓本といふものゝ必要を覺り、よく此方法に親しみ、これをよく手に入れておいて貰ひたい希望から私は、少からぬ犧牲を忍んで、昨年の十月は私が年來祕藏して居た奈良時代の美術に關する拓本の大部分を第一學院史學部の學生の手に委ねて展覽會を開いて貰ひ、又十二月には第二學院の學術部の學生をわづらはして日本の古い寺院の瓦に模樣
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