一片の石
會津八一
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)極《はて》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)羊※[#「示+古」、第3水準1−89−26]
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人間が石にたよるやうになつて、もうよほど久しいことであるのに、まだ根気よくそれをやつてゐる。石にたより、石に縋り、石を崇め、石を拝む。この心から城壁も、祭壇も、神像も、殿堂も、石で作られた。いつまでもこの世に留めたいと思ふ物を作るために、東洋でも、西洋でも、あるひは何処の極《はて》でも、昔から人間が努めてゐる姿は目ざましい。人は死ぬ。そのまま地びたに棄てておいても、膿血や腐肉が流れつくした後に、骨だけは石に似て永く遺るべき素質であるのに、遺族友人と称へるものが集つて、火を点けて焼く。せつかくの骨までが粉々に砕けてしまふ。それを拾ひ集めて、底深く地中に埋めて、その上にいかつい四角な石を立てる。御参りをするといへば、まるでそれが故人であるやうに、その石を拝む。そして、その石が大きいほど貞女孝子と褒められる。貧乏ものは、こんな点でも孝行がむづかしい。
なるほど、像なり、建物なり、または墓なり何なり、凡そ人間の手わざで、遠い時代から遺つてゐるものはある。しかし遺つてゐるといつても、時代にもよるが、少し古いところは、作られた数に較べると、千に一つにも当らない。つまり、石といへども、千年の風霜に曝露されて、平気でゐるものではない。それに野火や山火事が崩壊を早めることもある。いかに立派な墓や石碑でも、その人の名を、まだ世間が忘れきらぬうちから、もう押し倒されて、倉の土台や石垣の下積みになることもある。追慕だ研究だといつて跡を絶たない人たちの、搨拓の手のために、磨滅を促すこともある。そこで漢の時代には、いづれの村里にも、あり余るほどあつた石碑が、今では支那全土で百基ほどしか遺つてゐない。国破れて山河ありといふが、国も山河もまだそのままであるのに、さしもに人間の思ひを籠めた記念物が、もう無くなつてゐることは、いくらもある。まことに寂しいことである。
むかし晋の世に、羊※[#「示+古」、第3水準1−89−26]といふ人があつた。学識もあり、手腕もあり、情味の深い、立派な大官で、晋の政府のために、呉国の懐柔につくして功があつた。この人は平素山水の眺めが好きで、襄陽に在任の頃はいつもすぐ近い※[#「山+見」、第3水準1−47−77]山といふのに登つて、酒を飲みながら、友人と詩などを作つて楽しんだものであるが、ある時、ふと同行の友人に向つて、一体この山は、宇宙開闢の初めからあるのだから、昔からずゐぶん偉い人たちも遊びにやつて来てゐるわけだ。それがみんな湮滅して何の云ひ伝へも無い。こんなことを考へると、ほんとに悲しくなる。もし百年の後にここへ来て、今の我々を思ひ出してくれる人があるなら、私の魂魄は必ずここへ登つて来る、と嘆いたものだ。そこでその友人が、いやあなたのやうに功績の大きな、感化の深い方は、その令聞は永くこの山とともに、いつまでも世間に伝はるにちがひありませんと、やうやくこのさびしい気持を慰めたといふことである。それから間もなくこの人が亡くなると、果して土地の人民どもは金を出し合つてこの山の上に碑を立てた。すると通りかかりにこの碑を見るものは、遺徳を想ひ出しては涙に暮れたものであつた。そのうちに堕涙の碑といふ名もついてしまつた。
同じ頃、晋の貴族に杜預といふ人があつた。年は羊※[#「示+古」、第3水準1−89−26]よりも一つ下であつたが、これも多識な通人で、人の気受けもよろしかつた。襄陽へ出かけて来て、やはり呉の国を平げることに手柄があつた。堕涙の碑といふ名なども、実はこの人がつけたものらしい。羊※[#「示+古」、第3水準1−89−26]とは少し考へ方が違つてゐたが、この人も、やはりひどく身後の名声を気にしてゐた。そこで自分の一生の業績を石碑に刻んで、二基同じものを作らせて、一つを同じ※[#「山+見」、第3水準1−47−77]山の上に立て、今一つをば漢江の深い淵に沈めさせた。万世の後に、如何なる天変地異が起つて、よしんば山上の一碑が蒼海の底に隠れるやうになつても、その時には、たぶん谷底の方が現はれて来る。こんな期待をかけてゐたものと見える。
ところが後に唐の時代になつて、同じ襄陽から孟浩然といふ優れた詩人が出た。この人もある時弟子たちを連れて※[#「山+見」、第3水準1−47−77]山の頂に登つた。そして先づ羊※[#「示+古」、第3水準1−89−26]のことなどを思ひ出して、こんな詩を作つた。
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人事代謝あり、
往来して古今を成
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