語を作るのもいいが、お前のように一日中狭っくるしい部屋の中に閉じこもっていたって、決していいものは出来ないと思うな。第一、あれでは身体に障《さわ》るよ。儂はそれが一番心配なのだよ。……ああ、そうそう! 文麻呂! お前、覚えているだろう? 儂がこっちへ赴任する日に、お前が儂に記念にくれた小さな歌の本があったね?
文麻呂 万葉集ですか?
綾麻呂 うむ。……あれはいい本だな。あれはお父さんも感心した。どの歌もどの歌もみんな偽《いつわ》りのない魂がこもっている。歌よみ根性がないから、読む者の心を打つのだ。心の底から詠《うた》いきっているから、こっちの心の底にもひびいて来るのだ。歌を作るならああでなくてはお父さんはいけないと思う。……文麻呂! あの中でな、お父さんの大好きな歌がひとつあるのだ。……
文麻呂 何て云う歌です。
綾麻呂 (遠く不尽を望みながら、朗々と朗誦《ろうしょう》し始める)……
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天地《あめつち》の 分れし時ゆ 神《かん》さびて
高く貴き 駿河《するが》なる 布士《ふじ》の高嶺《たかね》を
天《あま》の原 ふり放《さ》け見れば 渡る日の
影も隠ろい 照る月の 光も見えず
白雲も い行き憚《はばか》り 時じくぞ
雪は降りける 語り継ぎ 言い継ぎ行かむ
不尽の高嶺は……
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文麻呂 (不尽を仰ぎながら)あの時代には国中の人達が美しい調和の中に生きていたのですね。……お父さん! 僕はしあわせです。(うっとりとして)万葉を生んだ国土。うつくしい国土。僕はこの国に生れたことを心の底からしあわせに思っています。
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右手、遠くの方から、瓜生ノ衛門夫婦の唄う「瓜作りの歌」が聞えて来る。
笹山《ささやま》の 山坂越えて
山城の 瓜生の里に
我は 瓜作る 瓜作り
ナヨヤ ライシナヤ サイシナヤ
我は 瓜作る 瓜作り 瓜作り ハレ。
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綾麻呂 文麻呂!……ほら、聞いてみろ! 衛門がお内儀《かみ》さんと一緒に唄をうとうとる……。
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空は紺碧《こんぺき》に晴れ渡っている。どこかで山蝉《やまぜみ》が鳴きはじめた。
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