裸婦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)陽炎《かげろふ》のやうに
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)シラコ[#「シラコ」に傍点]といふ
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ぽたり、/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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(一)
或る雪の日の午後。
街の角でばつたり、お麗さんらしい背をした女とすれちがつた。
女は鼠色の角巻を目深に、すつと敏捷に身をかはしたので、その顔は見えなかつた。
――彼女だ、たしかにあの女にちがひない。
私は断定した、同時にぎくりと何物かに胸をつかれた。
彼女は雪路を千鳥に縫つて、小走りに姿を消してしまつた。
――あの女の素裸を見たことがあるのだ、勿論一物も纒はない、ほんとうの素裸さ。
私は彼女の通り過ぎた後を振りかへつて、いひしれぬ優越感を覚えたのであつた。
女達は実際美しい。
着飾つた彼女達が、街をいりみだれて、配合のよい色彩の衣服をひるがへして往来してゐる姿は、まつたく天国だ。
黒い雲がすつと走り、急に曇天となり、空の一角がピカリとひらめいたと思ふまに、何かゞくづれるやうな大音響がして、雲の中から大きな青い手が。
爪の長い手が、ふいに現れ電光のやうに下界に流れた。
そして手は、一時に彼女達の衣服を空に舞あげたとしたら、彼女達はどんなに狼狽することだらう。
もぐらもちがお日様に眼を射られた時のやうに、あわてゝ下水溝の中へ悲鳴をあげて裸を隠すだらう。
しかしそんな心配は不要だ。
女達といふものは、実に油断のないものである。色情狂が電信柱の蔭から、彼女をおそつたとしても、彼女達は膝をすぼめて、べたりと地面にすわつてしまふだけの用意はいつでもできてゐるものである。
――彼女達は何故裸体をおそれるか。
この問題は、色気のついた女達の口からは到底満足な答を得られない。
そこで中には、質の悪い大人達が、この種類の質問を発して、子供達の口からたづねださうとする。これはよくあることだ。
教育上よろしくないことだ。
私の幼年時代、ある大人が
――××ちやんは、誰から生れたんだい、お母さんからだらう、お母さんの何処から産まれたの。
私の顔を覗きこんだ、なんといふ卑怯な質問といふものだ。
しかし私は、桃太郎が桃から生れたので
――坊も桃から生れたんだろ。
とは答へなかつた。
――母ちやんの臍から産まれたんだ。
小さい私は一言にかう答へて突放した。
大人達は、私の口から満足な答を得られなかつたので、不服さうな顔をした。
私はその当時、そんな問題に何の興味もなかつたのであつた。
その問題よりも、
――どうしたらコマが長く廻つてゐることができるだらう。
――戦争ごつこの策戦。
――隠れん坊の誰も気づかない隠れ場所。
かうしたことで小さな頭の中がいつぱいになつてゐた。
私の答弁は、確に不満であつたらしい、しかし、子供達の答として上できとほめてやらねばなるまい。
それに子供達は、妹や弟が生れる時にかぎつて、必ず追ひ出すやうに遊びにやられる。遊びからかへつて見ると、母親は、沢山積みかさねた布団の上に、鉢巻をしておきあがつてゐて、赤ん坊がやかましく綿にくるまつてないてゐた。
だから、何処から生れるとたづねる方が無理であつたのだ、
(二)
彼女達が、何故に裸を怖れるかといふことを、知りたいものがあつたなら子供達に質ねた方がいゝ、子供達はきつと真実に近いことをしやべるであらう。
ところが女達が裸を怖れなくなつたらどうだらう、けつして愉快なことではない。
或る日、私は裸を怖れないものに脅かされた。
私は朝湯の陽炎《かげろふ》のやうに立ちあがる湯気の中に、うつとりした気持で、ごし/″\手足を洗つてゐた。
高い天井の彩色硝子に、たちのぼる湯気が凝つて、その玉が行列をつくつてゐた。
玉はひとつづゝ間隔をゝき、ぽたり、/\落てきた。
その落てくる冷たさを、額やら背やらでうけた。
女湯は寂として、たつた一人の女が、ぴちや、/\、板の上を歩き廻る気配がした。
私は足音に耳を傾けてゐた。すると不意に男湯の潜り戸があき、男湯に体の純白な女が、獣よりも身軽に躍り込んで来た。
『あつ』と驚いて、仰向いた私の体の上に、彼女の裸体が掩ひかぶさつてきた。
――しまつた。牛の化物に殺られた。
瞬間、私はごつくりと、唾を嚥みこんで手近なところにあつた石鹸箱に手を掛けた。投つけようと思つたのであつた。
ところが女は私を押倒したのではなく、飛越えて湯槽の向ふに行つたのだ。
――爺さん、流しませうか、こつち背中向けなされ。
湯気の中から、ざら/″\と
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