に泥鰌が押寄せてきましてね。近所ではザルをもちだしたりして。
 と隣家の妻君は語るのであつた。
 その朝にかぎつて日頃早起きの私達は寝坊をしたのであつた。
 そういはれゝば、私は夢うつゝの中に、人々の立ち騒ぐのを聴いた。チャブ/\と水を歩き廻る気配や、女の声や、子供のはしやぐ声を玄関先にきいた。然し二人の床を離れた頃には、これらの物音は消えて、ひつそりとした朝であつた。私の住居の前一間と隔てずに幅三尺程の流れがあつた。小川といふよりもいつも濁つてゐたので溝といつた方が適当と思はれた。この流れは水田の排水口につながれてゐるので、この溝は水がから/\に涸れたりいつぺんに増水して溢れたりした。前夜の豪雨に田の水があふれ一気に田の中の泥鰌をさらつてこの溝に押出してきたものらしい。隣家では、一家族総出で米揚げ笊を持ちだして二升位もとつたといふことであつた。
 隣家からの泥鰌の蒲焼を食卓のまん中に置いた。
 その香気のあるおいしさうな匂は私の鼻をかんばしく衝いた。
 ――お前は、ないことに今朝は寝坊をしたね。
 私の妻に対する言葉は表面穏かであつたが思ひがけない幸福をとり逃がしたやうな、腹の何処か
前へ 次へ
全12ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小熊 秀雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング