ぶら/″\さげてとまりしきりにあちこち見まはしてゐたからだ。
 ――あんなものを、足に着けてゐては窮屈だらうな。
 私もかういつて妻と声を合せその雀の様子がおかしいといつて笑つた。不意に私達の暮しの背後から、又は横合からでも、思ひがけない処から思ひがけない物が、飛び出してくると、必ず私達の生活が晴《はれ》々と、あかるくなるに違ひないことを私は確信した。私はこれを私達の『奇蹟』と名づけた。
 ぼんやりと、その奇蹟を待ちうける気持ちは、私達夫婦にとつては、ずいぶん久しいものであつた。だがその霧のやうな捕へどころのないものは、大股に、また小きざみに、私達の知らぬ間に住まゐの傍を通りすぎてゐるかのやうに思はれた。

    (四)

 隣家の妻君が朝飯の最中純白な西洋皿に、体裁よくならべた泥鰌の蒲焼を盛つたものを手にして裏口に現れた。
 ――奥様、今朝は面白うございましたよ。
 かういつて、隣家の妻君はその皿を意味ありげに差し出すのであつた。
 ――まあ、おいしさうな、これは御馳走さまです、始終いろ/\戴いてばかりをりまして。今朝なにか御座いましたのですか。
 ――それが騒ぎなんですよ。前の溝に泥鰌が押寄せてきましてね。近所ではザルをもちだしたりして。
 と隣家の妻君は語るのであつた。
 その朝にかぎつて日頃早起きの私達は寝坊をしたのであつた。
 そういはれゝば、私は夢うつゝの中に、人々の立ち騒ぐのを聴いた。チャブ/\と水を歩き廻る気配や、女の声や、子供のはしやぐ声を玄関先にきいた。然し二人の床を離れた頃には、これらの物音は消えて、ひつそりとした朝であつた。私の住居の前一間と隔てずに幅三尺程の流れがあつた。小川といふよりもいつも濁つてゐたので溝といつた方が適当と思はれた。この流れは水田の排水口につながれてゐるので、この溝は水がから/\に涸れたりいつぺんに増水して溢れたりした。前夜の豪雨に田の水があふれ一気に田の中の泥鰌をさらつてこの溝に押出してきたものらしい。隣家では、一家族総出で米揚げ笊を持ちだして二升位もとつたといふことであつた。
 隣家からの泥鰌の蒲焼を食卓のまん中に置いた。
 その香気のあるおいしさうな匂は私の鼻をかんばしく衝いた。
 ――お前は、ないことに今朝は寝坊をしたね。
 私の妻に対する言葉は表面穏かであつたが思ひがけない幸福をとり逃がしたやうな、腹の何処かに滑稽な悲しみに似たものがこみあげてくるのであつた。
 ――わたしも、今朝なにか騒がしいと思ひましたよ。
 ――思ひついたら起きて見たらよかつたぢやないか。
 青丸はしきりに、小さな手で食卓の上にはい上がらうと努力してゐたが急にむせびだして顔を火のやうに赤くしだし、喰べてゐた飯をテーブルいつぱいに噴きだし激しく続けさまに咳をしだした。
 いかにもその咳が苦しさうであつた。妻は慌てゝ強く青丸の背を平手で打つた。青丸は眼を赤く充血さして、ゼイ/″\と壊れた笛のやうに、のどをいはしながら、鶏のやうにのどをながく伸していつまでも咳をし続けた。
 ――貴郎《あなた》、青ちやんは、百日咳に取りつかれたんぢやなくつて。どうもさうらしいわ。
 妻は心配さうに青丸の様子を窺ひながら私にかう問ふのであつた。
 ――そんなことはお医者ぢやないから知るもんか。
 私はかう邪険に突離してをいて泥鰌の蒲焼のひとつを口にほうりこんだ。妙に乾燥した風味と、そして泥鰌の背の軽い骨とを歯に感じた。しかしその香気は風に散つてしまつたかのやうに何の味もないものとなつてゐた。



底本:「新版・小熊秀雄全集第一巻」創樹社
   1990(平成2)年11月15日新版第1刷発行
底本の親本:「旭川新聞」旭川新聞社
   1927(昭和2)年8月25日〜28日
初出:「旭川新聞」旭川新聞社
   1927(昭和2)年8月25日〜28日
入力:八巻美恵
校正:浜野 智
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
2006年11月8日作成
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