泥鰌
小熊秀雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)南瓜《かぼちや》畑で

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]して

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)いち/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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    (一)

 夏に入つてから、私の暮しを、たいへん憂鬱なものにしたのは、南瓜《かぼちや》畑であつた。
 その葉は重く、次第に押寄せ、拡げられて、遂に私の家の玄関口にまで肉迫してきた、さながら青い葉の氾濫のやうに。
 春の頃、見掛は、よぼ/″\としてゐる老人夫婦が、ひとつ、ひとつ、南瓜の種を、飛歩きをしながら捨るやうにして播いてゐた。
 数年前まで、塵《ごみ》捨場であつたその辺は、見渡すほど広い空地になつてゐて、その黒い腐つた、土塊は肥料いらずであつた。
 セルロイドの玩具や、硫酸の入つてゐた大きな壺や、ゴム長靴や肺病患者の敷用ひてゐたであらうと思はれる、さうたいして傷んでもゐない、茶色の覆ひ布の藁布団などに、老人夫婦は十日間程も熱心に鍬をいれてゐた。
 鍬が塵埃の中の瀬戸物にふれると、それは爽かな響をたてた。
 老人達の仕事を、書斎でじつと無心に眺めてゐる、私の感情をその瀬戸物にふれる音は、殊に朗かなものにした。
 種ををろしてから、三月と経たないうちに、老人夫婦は、私の書斎からの、展望をまつたく、緑色の[#「緑色の」は底本では「縁色の」]葉で、さいぎり、奪つた。
 夏の地球は、暖房装置の上にあるかのやうであつた、老人の播いた南瓜の種も、みごとに緑色の葉をしげらし、この執拗な植物は、赤味がゝつた黄色の花をひらいた。
 その花を、たくましい腕のやうな蔓がひつ提《さげ》て、あちこち気儘にはひ廻り、そして私達の住居を囲み、私達夫婦の『繊細な暮し』を脅かしはじめた。
 この南瓜畑に、取囲まれながら私達は、結婚後三年の夏を迎へた。

 妻は、シンガーミシンを踏むことが巧であつた、青丸《あをまる》には、いつもあたらしい布地に、美しい色糸でさま/″\な[#「さま/″\な」は底本では「さ/″\まな」]図案の胸飾をした、涎掛を、つくつてゐる。
 妻の愚鈍さに、二年程前からつく/″\愛憎を尽かしてゐるのであつたが、このミシンの巧さが、妻にとつては唯一の取柄といつたものであつた。
 ――ミシンを踏む彼女。
 その時こそ、何時よりもまして聡明な場合の彼女であつた。
 ――おい、自分の指を感心に、縫はないな。
 調子のよい響をたてゝ、ミシン台にゐる妻にかういふと、
 ――それほどに、馬鹿ぢやないわ
 とチラリと軽くふり返つた。
 だがこの聡明な仕事も、南瓜の花の真盛りのころから、ばつたりと止してしまつた。
 炎天が幾日も、幾日もつゞいたその後に、今度は雨が幾日も、幾日もつゞくのであつた。
 すると妻は、急に私にむかつて口小言をいひはじめた。
 ――ほころびがあつたら、早くいつて下すつたら、いゝぢやありませんか、出掛にばかりいはないでね。
 ――男が、どこが破れてゐるの、ほころびてゐるのと、いち/\注意してゐられないよ。そんな仕事が女の仕事ぢやないか。
 妻は私の手から、着物をひつたくつて、その布地を歪ませながら針を運ばせ、不平さうな顔をするのであつた。
 ――まあ、こんな下駄の減らしやうて、ありませんわ、上手に減らすもんですよ。もつと平均にね、坂になつてるぢやありませんか。
 玄関口に女は下駄を揃へながらかういふ。
 私は内心、いま/\しく感じ、
 ――下駄を減らす男は純情さ。履物を気にして歩いてゐる男に、ろくな男がありはしないよ。
 私はベッと地に唾をして外出するのであつた。

    (二)

 何処の家庭でも、夫婦喧嘩の材料といつたものは、さう眼あたらしいものが次々と、湧いてくるものでもないやうに、二人にとつてもその種は尽きた。
 その種の尽きた時、どうしても争はねば、気が済まない場合には果ては食物の嗜好のことが、唯一の争ひの題材となつた。
 ――俺は酢の物は大嫌ひだと、あれ程いつもいつてゐるではないか。
 ――でも。
 ――何がでもだ。調味料として、我々の家庭には、酢は絶対に使つてはいかんよ。
 私はホテルの支配人のやうに、肩をいからして、この料理人にむかつて命令をしたのであつた。妻は一瞬その眼をほがらかにして、
 ――でも酢の物を喰べると、骨が柔かになるといひますわ、
 と答へるのであつた。そして妻は、支那人の曲芸をやる者は、酢を飲んでゐること、平素酸性の多い食物をとつてゐると、たしかに身体が柔
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