の論評は一切待つたなしにしたい。
▼小林君はドストヱフスキイ論では僕に「待つた」をかけながら、「菊池寛論」をやることでは、「待つたなし」でやることは、身勝手といふものだ、菊池氏が「僕の仕事が終つてから何とか言つて貰ふことにしたい――」と言はなかつたのが幸である。
▼いゝかげん小林式の二枚舌で読者を混乱させることは、この辺で切り揚げた方がいゝと思ふ。文士といふ特殊的存在が、理屈をいふ技術と、いささかの文字を弄する自由をふるまつて、無論理的な言説をまき散らすといふ現象に、読者が何時まで堪へ得られるかといふことは問題だらう。
▼然し時代は「待つたなし」になつてきてゐるし、文壇のこれまでの八百長性や、中途半端性は、文壇仲間は知らず、大衆の良心性がその存続をこれまでのやうにゆるしてはをかないだらう、作家の言説に、矛盾が現れてゐればゐるほど作家らしい――などといふ作家タイプはもう新しい時代のものではない、小林秀雄といふ人間的矛盾は、もう売り物にはならないといふこと、もし今後も売品たり得るとしても、一般大衆が経験してゐる真実の社会的矛盾の、その圏外に、勝手に小林が売つてゐるだけといへよう。
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