で、誰がどのやうな分担をしたのかさつぱり判らないが、たかだか六百数十頁の本を四人で突つき合ふといふ、共訳の意義が奈辺にあるか、これまたわからなくなる。


悩み果てなし
 農民小説と徳永の作

 ▼農民小説と銘打たれてゐる作品の大部分が、その内容や表現の、泥臭さ、野暮臭さの点でだけは『農民もの』らしいが、さつぱり農民生活の本質にふれてゐないことは久しいものだ、何とか稀にはスッキリとした農民小説でも現はれて、読者を解放して欲しいものだと思ふが、それがない。
 ▼我々の見るところでは、農民作家と自称する連中の、勉強不足は眼立つものがある、農民の封建性と共に棲むといふことが農民作家だといふのであれば議論がないが、作家として高い客観性から、現在の日本の農民生活を、如実に描き得るといふ第一の資格は、その作家の政治的水準の高さ――それが是非とも必要なのである。
 ▼見渡したところ誰が、さうした政治的観点から、農民生活を描き、描かうとしてゐるか、農民作家の人材の乏しさは、目立つて心細いものがある。
 ▼農民小説や、戦争小説は、取つ付き易く、組み敷き難いものの最大なもので、これらをテーマに扱ふ作家は、幾多の難問題を控へて、よほどハッキリした頭の持主でなければ、所謂農民の家常茶飯事的物語りの作り手以外になることは不可能だらう。
 ▼徳永直の『先遣隊』(改造二月号)は、大陸物で、移民先で郷愁にかゝつた青年が退団して、郷里に帰り、周囲の白眼視の中にゐたが、相愛の女が渡満することになつたので、彼も再び渡満するといふ筋で、美事なハッピイ・ヱンドで結んでゐる、農民小説も、こゝに国策的な大陸移民ものが加はつて、悩みが新しく一枚加はつたわけだ、日本のインテリ映画ファンは、アメリカもののハッピイ・ヱンドを曾つて極度に軽蔑したものであつた、物語りの過程がいかにリアルであつても、終り楽しければ、そこの部分だけで、大きく相殺されるといふことを、徳永が多少野暮でない、明るい農民物で如実に示してゐると言ふべきだらう。


手遅れの感
 本多顕彰氏の激憤

 ▼新潮四月号は『小説の政治性と芸術性の問題』の課題で、本多顕彰、富沢有為男、保田与重郎、伊藤整の四氏が評論をかいてゐる。
 ▼これらを読んで感ずることは、作家、評論家にも、いよいよお灸が利いてきたらしいといふことだ、これは四氏のみに当てはまる言葉ではないが、事変下の大方の作家、評論家は、情勢に応じて、作家行動も、かなりいい加減な合理化をやつて、心理生活の間に合せをやつてきたものが、こゝへ来ては、いよいよモグサの熱さから、肉体の熱さに移つてきて、その言説も、いやでも実感を帯びないわけにはいかなくなつたやうだ、新潮の評論四氏何れも甚だ実感的文章である。
 ▼なかでも本多顕彰氏は『も一つ前の問題』といふ題下に、近来の大激憤を洩してゐる、彼の論旨は、政治家に要望して『政治が文学に話しかける時、政治は己れの中のヒューマニズムを省みなくてはならない――』といふのである。
 ▼しかし考へても見よ、本多氏のいふ政治の中のヒューマニズムなどとは、いつたいどんな姿恰好をしたものを指していふのか、これまで政治が政治自身の中のヒューマニズムなどを、只の一度も論じたり検討したりした証しでもあるといふのか、一方文学者にしても文学自身のヒューマニズムを論じたことはあつたが、政治の中のヒューマニズムなどに、これまで関心をもつたり、論じたりしたこともあるまい。
 ▼情勢がこゝまで進んできて、政治家と文学者との接触の機縁を得た途端に、本多氏が『政治の中のヒューマニズム』なるものを大慌てに論じようとしても、それは単なる応急処置的なヒネリ出し理論にとゞまるだらう、政治と文学との連結に関しては、既に手遅れだといふことを本多氏はもつと痛感し、発表する文章が、満身創痍の伏字だらけの文章で書かないだけのこの際特に冷静さを必要とするだらう。


底本:「新版・小熊秀雄全集第5巻」創樹社
   1991(平成3)年11月30日第1刷
入力:八巻美恵
校正:浜野智
1998年12月10日公開
1999年8月28日修正
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