批評家に於いても、その作品の正統性を粘り強く、読者に訴へてゆくといふ態度が、これからは是非必要なことだと思はれる。こゝでは名はあげないが既に二三の優れた著作物は、発行されてから可成りになるが、依然として作品の良心性は紹介されてゐるし、そのことに依つて着実な読者を獲得してゐる。
 ▼殊に最近の読書界は、近来診らしく重版などといふ現象もあるので、一般の読書本能も決して低くない証拠を示してゐるので、この際良質の刊行物紹介は、批評家もじつくりと腰を据ゑてなすべしである。


ベタ組み小説
 読者を解放すべし

 ▼文芸の七月号では五氏の小説が特輯されてゐるが、なかで武田麟太郎氏の小説『井原西鶴』と伊藤永之介氏の『燕』とは、全く一行の会話も交へない小説形式で、なんのことはないベタ組みに等しいびつしりと詰まつたものである。したがつて忠実な読者があつて、この雑誌の小説欄の一頁から順々に読んでゆくとすれば、然も武田氏(三十五頁)伊藤氏(二十二頁)がつづいてゐるため、五十七頁からの間を、行分けのない全く読者の視覚の解放のない頁を読過しなければならない。
 ▼かういふことに対して、作者自身も編輯者そのものも、神経を読者のために使ふ必要がないものかどうか、新聞編輯では、見出しの良き配列といふ点を編輯者が何よりも苦心する、俗に垢ぬけのした編輯ぶりといふのは読者に記事を押しつけるのでは決してない、読者の視覚を解放しながら、旁々本文を読ませるやうに誘引するのである。
 ▼作家の書く小説は新聞記事とはちがつて個人的制作物だからといつて、どんな形式を読者に押しつけてもよいとは言はれまい。小説形式の中から会話といふものを放逐してしまつて、見ただけでもウンザリするほど文字をベタ詰めにするといふ叙述形式は、これは単に読者心理の解放といふだけの問題にとどまつてだけはゐないだらう。
 ▼早晩その小説形式の本質問題は論ぜられなければならないし、殊に武田氏の西鶴ものの場合、形式の内部的矛盾は早くも現はれてゐる、散文の本質から彼が離れまいとすればするほど、散文とは縁遠い、講談口調と一種の雄弁術とが露骨になつてきてゐる、問題は小説の文字ヅラだけのやうであるが、決してさうではあるまい、作者といふものは作品を押しつけるばかりが能ではない、作者は読者を解放するとともに、適宜に自己も解放しなければいけないものだらう。


保護すべし
 杉山のマルクス残党論

 ▼中央公論所載の杉山平助氏のマルクス主義の残党に与へる『地獄に生きる』の一文は近来の好読物である。杉山氏の近来のものは、往年の颯爽昧はないが、それにとつて変つて思想的な悪あがきは、壮観なものである。近来の彼の読者もまた往年のものではない。ジャナリズムに活躍してゐる彼の姿に対して、一種の快感をもつて見るといふところである。
 ▼ジタバタする杉山氏の姿を、良い気持で眺めてゐる読者を杉山氏は責めることはできない。何故なら、彼自身がさういふ風に読者を教育してしまつたのである。
 ▼マルクス主義の残党の亡霊に怯える杉山平助氏は、自己の中の亡霊を追ひ出す暇もないほど、他の亡霊を追ひ廻すのに忙がしいが、その杉山氏の状態をみると、亡霊の社交界を駈けまはる男のやうで、一本をきに歯のぬけた口をもつた紳士のやうである。彼の吐く理論的言語は未だ曾つてまとまつたことを一度も吐いたことがない。論理はスースーと歯の間からぬけるのである。甲の場所では肯定し乙の場所ではその同一のことを否定する、然もそれをなるべく素早い方法でやる、つまり手品と共通な方法で文章を書くのである。彼の口の中の歯が全く抜けてしまふまでにはまだ間があるだらう。今となつては彼にとつては抜け残つた歯が邪魔な位だ。彼の口にする処のマルクス主義の残党などは何処にもゐないので、ただ彼自身の口の中に引つかかつてゐる丈である。
 ▼さういふ意味で彼位曾つてのマルクス主義者に手ひどい惚れこみ方をした男はちよつと珍らしい。ジャナリズムは彼を保護するだらう。何故ならジャナリズムは彼より少し許り利巧だから、杉山氏のやうな時代的矛盾の全き反映として、立派な抽象的人物をジャナリズムが大切にしないわけはないから、有用なものはいつも利用されるだけである。杉山氏の書く文章が仮りに今後どれ程愚劣なものに化しても、客観的興味を失ふことは決してあるまいし、事実彼の今後の書くものには漸次さうしたサロン的色彩を帯びてくるだらう。


文学長期建設
 作家には停戦なし

 ▼政治の物々しい行動に怯えたインテリゲンチャ作家が、少し許りの良心性を社会にひけらかす為に「日本的なもの」といふ抽象的な言葉を持ち廻つたのはつい最近であつた。そしてさつぱり具体的な日本解明に、足を踏み込むことも出来ず、その醜態のクライマックスを示してゐた時、今事
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