結びつけられた、所謂農村問題の『取り巻き連』では農村の本質の解明は不可能である、わけても文学の場合にはその特質があり、作家がそれを見失ふときは、政治家との接触の限りで、文学者の媚態以外の何ものでもないであらう。
神話の擁護
高沖陽造氏へ一言
▼高沖陽造氏は新潮新年号で『神話の時代』を論じてゐる。二十世紀の神話は、たしかに現代的テーマではある。しかし高沖氏がこの問題をどんなに解答したところで、問題の出発そのものに一つの神秘化があるといふことを正しく認識してかからなければ無駄である。
▼高沖氏のやうに『神話』を論ずるにあたつて可能なものだけを引つぱり出してきて、可能なことをしやべるが、現実的なことを少しも証明しないといふ結論に陥る位なものだ。
▼『神話の時代がきたときに、世界観の時代が終つた』と高沖氏はいふが、氏のこゝで理解してゐる世界観なるものの解釈は頗る怪しいものである。氏は新しい神話の登場と擁護をもつて、従来の世界観の歴史的継続を、こゝのところで遮断し、否定しようとしてゐる。
▼何故高沖氏は、旧来の世界観にとつて代[#「代」は底本では「変」と誤記]るものが神話であつて、世界観でないなどと言はないで、神話と称する『新しい世界観』だと言ふことができないのか――、高沖氏の世界観否定の理由は『普遍的世界概念の成立しないところに世界を総体的に理解するところの「世界」観の成立しよう筈がない――』といふ。
▼『成立しないところ』とか『成立しようはずがない』などといふ決定的なものの言ひ方は、高沖氏が神話を理由づけるところのコジつけ以外の何物でもない。一方が一方を否定するといふ主観的状態だけで、一方が成立しないとか、成立しなくなつたとか、考へるのは独断といふものである。
▼『神話と科学との対立も、全民族が『法則』を承認しさへするならば、神話のうちに科学が包摂することができる――』などといふに至つては、この理論家もまた『法則』の助け太刀で、うつらうつらと夢をみようといふわけでお伽話以上である。文学雑誌に掲載されたからいゝやうなものの、高沖氏よ、この神話の問題を科学者にどんな扱ひをされるか、一度科学雑誌にでも掲載して見給へ。
謙虚となれ
従軍作家達に望む
▼最近の従軍作家の言説をみると、すこし許りヒガミすぎてゐるやうだ、これらのヒガミの多くは、戦地に行つて
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