氏は世間的には新鮮さを失つてゐるのである、しかし伊東氏の作品と人間とは、画壇生活の長さとは今では何の関係もない、伊東深水氏は大家にちがひないが、百二十歳ではないのである。伊東氏は四十歳をちよつと出た許りなのである、氏の実力を云々し、将来への期待を抱く人があつたなら、深水氏の年齢的な若さを問題にし、そのことに関心をとどめるべきだと思ふ。また伊東深水氏の画業の上では真個うの意味の野心はこれまでではなく今後に於て果たされるであらう。
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奥村土牛論
俗にそれを世間では七不思議などと呼んでゐるが「美術界」にも七つ位は不思議なことがありさうである、第一に美術批評家なる存在もその不思議の一つであらう、それは世の美術雑誌は、批評家にろくな原稿料を仕払つてゐないし、それ許りではなくタダ書かしてゐる向が多い、それだのに批評家は餓死もしないで立派に生きてゐるといふことなども不思議の一つであらう。生活の資どころか、生命の資を原稿の正統な報酬で得られなくても、文章の上や対人関係で一人前に絵書きを脅迫する腕があれば立派に喰つて行ける他人に知らない穴があるやうである。第二の不思議は、百貨店の展覧会、作者御本人が知らないのに、出品されてゐたり、個展が開かれてゐたり、第三には、第四にはとその美術界の不思議を数へたてゝくれば、七不思議にとどまらないやうでもある、しかしこの不思議に就いて論じて行くにはこの欄がその場所ではない、機会を見てこれらの不思議に対して、はつきりとした文章を書いてみたいものである。
何故、日本の美術界に批評の厳正が失はれるかといふ不思議を解くことなども、時節柄、急を要することであらう、閑話休題。
ただ私は美術界の七不思議の一つに、一人の人物を加へたいのである、それは奥村土牛氏である。何故に奥村土牛氏が画壇的存在として不思議の一つであるか、人間の保証もついてゐて、絵の定評もあり絵の値段もなかなかいゝ、所謂世間には好評嘖々たる立場にある土牛氏に、何の不審な個所があるだらうかと、或は疑ひを抱く人もあるかも知れない。
さういふ人に対して、私がかう質問して見たとする。
「奥村土牛の作品をどう思ひますか」
「実に彼の作品はいゝ、神品だ、実にうまい」と相手は答へる、そこで私は更に質問を押しすゝめて、
「何故に神品か」とたづねてみる、すると相手はさういふ質問の追求を軽蔑したやうに、確信的に
「いや、とにかくうまいもんだよ」
と答へるのである、奥村土牛はたしかにこのやうに目下世間的に好評なのである、しかし、土牛の作品は何故良いかといふ具体的内容に触れた言葉を、いまだ曾つて聞いたことがない、然も土牛の作品に対する美術雑誌の批評を調べて、この人物論を書くのに少しは参考を得たいと思つて、いろいろ読んでみたが、その批評家たちの批評は、言ひ合したやうに「とにかく土牛の作品は神品だ――」式の批評であつて、土牛の本質に触れる力が批評家にないのか、或はなるべく本質に触れることを逃げ廻りながら、上手に賞める言葉を考へ出さうとして苦しんでゐるかのやうに見受けられる、したがつて世上流布の土牛論は一つも参考資料にはならなかつたのである、それ許りではない、これらの土牛批評と私の批評とは、ことごとに意見の対立的なものがある。
ある美術批評家は、土牛の色感に対して、実に新鮮で若々しく青年的だといふ批評をしてゐるところで私の土牛の色感に対する考へは、その批評家の考へとは、まるで反対な意見をもつてゐる、土牛の色感は青年的どころか、老人的なのである、人生を幾つかの段階に分けて、その竹の節のやうなつぎ目つぎ目に、感情の躍進があると仮定すれば、土牛の最近の色彩の、一見、青年的にみえる色彩は、その人生の節の一つである。「初老的」な感情の躍進が、色彩に反映したものと観察を下すのである。
世間には七十歳になつて、緋色の袖無しを着るといふこともあるのである、土牛の色にあざやかな赤が使はれてゐたからといつて、それをもつて直ちに「若い」などといふ軽忽な批評は下されないのである。さういふ批評家は闘牛師が赤いマントをふりさへすれば、飛びついてゆく牛のやうな、ムチャクチャな単純な頭をもつた批評家といふべきだらう。
少くとも赤の種類といふものを考へないわけにはいかない、またもつと突込んで、その画家が使用した色彩の性質と、画家そのものの肉体的生理的状態と、よく照らし合はして、そこから一つの批評語を抽き出さなければならないと思ふ。奥村土牛氏はたしかに、現在第一人者的人気を呼んでゐることは確かだが、この人気を呼ぶやうになつたこれまでの作品的な根拠といふものも、一応立証されなければならないし、また現在の作品が、この人気を持ちこたへて、永続的であるかどうかといふことも吟味してみなければならない。
作家は味方をもつてゐれば、敵ももつてゐるものであるが、土牛氏に関しては、非常に氏は製作に遅筆であつて、なかなか出来上りがおそい、絵の催促に十回通はされたとか、二十回通はされたとかいふ、恨み言を聞いた以外に、土牛は恨まれる何ものももつてゐないやうである。敵はもつてゐないやうである、だがこゝに或る人が私に向つて不思議な土牛評をしたので、思はず私がハッとしたのである。
それは斯ういつたのである奥村土牛が急に現在の位置を占め、頭角を顕はしたことに対して「土牛は画商の情けで大家になつたのだ」といつた言葉である。私は個人的にも、また批評家的立場からも、この一言は聞き捨てのならない言葉なのである。
一方では土牛の絵に対して「そのお仕事に就いては腹の芸であり、取材から言つても、構成から言つても純粋に絵画的です、千古に通ずる高貴な精神は、やがて昭和の名画として、後世に真理の様に輝くでせう」(森白甫氏の土牛評)と言つてゐるかと思ふと、一方では「奥村土牛の画壇的擡頭は画商の情けである――」といふ批評がある、この間には何か矛盾があるやうである、森白甫氏の評のやうに、土牛氏の絵が千古に通ずる高貴な精神の現れた作品であるといふのが真当《ほんと》うだとすれば、その作品の良さは決して今に始まつたことではなかつたであらう、世間でも、また画家仲間でも「奥村土牛はもとから絵がうまかつた」といつてゐる人も多い、もとからうまかつた土牛氏がどうして、現在まで画壇の表面に現はれなかつたのか? 五十の声がかゝつて始めて問題にされるといふことは、この作家を不遇と呼んでいゝか、幸運と呼んでいゝか、或る人は土牛氏はその仕事の精進から見ても、現在の人気は当然酬ひられたものだといひ、或る人はいや土牛は現在は胴上げをされてゐるので、酬はれ方が四五年早かつた、彼は酬はれ方が遅ければ、遅いほど良い仕事をする性質の作家だと評してゐる、もう一つの評者は、奥村土牛の画壇的登場は今が一番の汐時であつて、今をはずしては他日にはないといふ見方をしてゐる人もある。
最後の評者の意見と関連したものでは「画商の情けによつて、こゝらで大家にしておかう――」といふ雰囲気が、彼を一躍市場価値あるものにしたといふ評がもつとも問題なのである。
この批評は一見作家に対して侮辱的な感じを与へるが、決してさう許りにはとることができない、これまで土牛の仕事が優れてゐながら、その作家の性格、勤[#「勤」に「ママ」の注記]き、運命観さうしたものが理由となつて、その価値の正統な評価がかくされてゐたとすれば、それは画家仲間の互助精神が欠けてゐたのだと言はれてもしかたがないであらう。
なぜ仲間が、土牛をすぐれた作家だと強調することをしなかつたのか、そして奥村土牛といふ作家に院展に「孤猿」といふ性質の作品を描かせておいて平然としてゐたかといふことに疑をもつ、当然世に押しださなければならない作家は、画商の手を藉りるまでもなく、作家同志の協力と愛情に依つて行はれるべきであらう。
画商の情け云々といふ言葉は、私に言はせれば、作家同志が土牛の作品的価値の認め方があまりにをそく、画商の方がしびれをきらして先に土牛を世に送り出した感がある――と観察を下されてもやむを得ないだらう、いま土牛は「神品」であると評され第一人者であると評されても、本人の土牛が果してどれほどそのことを嬉しがつてゐるかといふことは問題である、私の接した限りではあまり本人は嬉しさうな顔もしてゐないのである。
私の理解する限りでは、奥村土牛はこゝで以前にもまして、しぶい顔をしなければならないと思ふしまた前よりもまして遅筆にならなければいけないやうである。依頼画の出来上りは、精々をそい方がいゝ、世間では土牛は遅筆の標本のやうに言はれてゐる、しかし私の観察では、土牛は相当筆が速いと思はれる、画を依頼し、その出来上つたのを手渡すことが遅かつたからといつて、直ちにその作家を遅筆だなどとは言へないのである。
氏と対座してゐるときの印象では、言葉を忘れた病人、「失語症」の人のやうに、沈黙の行をやる、土牛といふ雅号にふさはしく鈍重で動作ものろく、こちらで物を言はなければ千年も黙つてゐさうである。土牛に面会に行つた人は、話のつぎ穂がなくてまづそれで参つてしまふ、極端に慇懃であるといつてもいゝ、或る人が「土牛は卑怯な位、ものを言はない――」といつてゐたが、全くさうした感もないではない。
しかし誰かが土牛の玄関先に立つたとき、二階から降りてくる土牛の動作を観察したものがあるだらうか、二階から降りてくる、また二階へあがつてゆく土牛の動作は、全く動物的だと思はれるほど、すばらしく敏捷そのものなのである。階段を二三段いつぺんに駈け上り、駈けをりる感じである。
作品をみても、さうした敏捷さ、激情性はよく表現されてゐる、一口に言へば奥村土牛は作家的にも人間的にも、非常に激しい人なのである。第二十四回日本美術院出品の「仔馬」はその抒情性に於いて隠されてゐる作者の人間的な優しさを露はしたものである、しかし奥村氏の人柄の優しさは、その人との対座に於いては感ずることができるが、作品の上ではそれとは反対の極限を画風の上で示す、土牛氏の芸術観は厳格であり、苛烈なものがそれである。人柄としては慈母的優しみをもち、作品的には厳父的いかめしさを示してゐる、院十九回試作展「朝顔」も二十三回試作展「野辺」では、描かれた枝葉の尖端はあくまで鋭どく針のやうにとがり、剃刀のやうに薄く描写されてゐた、その描写の態度の鋭どさは同時に画面の緊張感に於いては成功してゐたが平面化されすぎた憾みがあつた、しかし土牛はその精神的な追究を、空間的に置き替へていつた、土牛の真骨頂は、その辺りから発揮されてきたと見ていゝ、日本美術院第二十五回展の「鵜」あたりは転換後の良い特長が現はれたとみることができる、殊に最近の作では青丘会新作展覧会「八瀬所見」は土牛自身の感懐を語る、代表作と見ることができるだらう、土牛には一種特別の客観描写の力量があり、その部分が他の作家の追従のできないところである。
私はそれを「土牛の突離し」と自分で名づけて呼んでゐるが、描く対象を少しも甘やかさず、ちよつとでもアイマイだと思はれる手法は用ひられてゐない、たとへば彼は一つの空間に木の枝を描くとしても、彼の対象に対する主観的、客観的態度の分け方のはつきりしてゐる点、空間の分割の仕方、の冷酷だと思はれるほどの突ぱね方は、その点では画壇でも第一人者だといふことができよう、しかし芸術とはその認識の方法の優れてゐることだけで仕事の全部を終つたわけではない、もつと綜合的な完璧を目標としなければならない、土牛の認識の方法は他の作家が真似ができないとしても、また土牛の欠けてゐるものを他の作家が完成してゐることも多いのである、遠いところの枝はあくまで遠く、接近したものは、あくまで近くといふ突離しは土牛のやうな思索力の強い作家でなければ、それを現実的な実感的な形では表現できないのである。
画商の情けで土牛が大家になつたといふやうなこと――もそれもいゝであらう。しかし土牛がこゝまでやつて来るのに、その頑
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