リフラワー」二点色の近代性は光風会の出品者にしてはとび抜けて新しい。構図のとりかたに近代人としての飛躍があり、明快な対象の捉へ方、特殊な水々しい感覚の作品であつた会場を一巡して須田剋太の絵にきて、どうやら社会性や時代性に接した感がした。この作家の良き才能を祝福したい。
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洋画壇時評 独立展を評す
第一室
中間冊夫[#「中間冊夫」に傍点] 筆法が濶達でのびのびした作画態度にこの人の将来の仕事への余地を示してゐる。一沫の凄愴味がありそれに絵画的要素と文学的要素と、これ程に調和的なものとした手際は水際立つてゐる。日本の洋画壇でも、もういゝかげんに絵画の世界と文学の世界との結びつけをやつても良いと思ふ。中間冊夫は今後益々この特異性を発揮して欲しい。
菊地精二[#「菊地精二」に傍点] この作家の構成の苦心は買ひたいが「鉄」「機械」「ガラス」といふ三つの物質の描写上の説明が、いづれも混沌として、三つの画題に分けた必然性がない。もつと具体的に三つの物質を見る者に説明し、証明する親切さがあつてよかつた。例へば「ガラス」の描写にしても、ガラスといふ物質は最も重要な他の物質と異なる組織体として、透明であるといふこと、このことは硝子を描く上に無視出来ない筈であるが、彼の「ガラス」の描写には色彩と線との構成的成功があつたが物質の質の説明がなかつた。然し菊地精二の絵の色感は何れも時代性を把握して美しい。
第二室
小島善太郎[#「小島善太郎」に傍点] のマンネリズムには私が批評するまでもなく、マンネリズム批評家に委ねていゝ。
川口軌外[#「川口軌外」に傍点] の四点の出品のうち、「貝殻」だけは沈着いてみることができ、其他の「無題」「花」「鸚鵡と少女」何れも線のうるささと、色彩は美しいといふよりも、通俗的美観を呈してゐた。新時代の美意識といふものの、追求が足りないと思ふ。
第三室
中山巍[#「中山巍」に傍点] 「蔬菜」「砂丘」「花」の三点の出品は自づからこの作者の三つの方向を示ししかも三つの心理的分散を証明したものがある。私は中山巍を他人のいふ程にリアリストと見るわけにはいかない。辛うじてリアリストであるだけだ。
「砂丘」は作画態度の明快な、そして色感の豊富なものがあり、筆触の簡略化も効果をあげてゐるが、全体的に批評すれば、総べて中山巍の画は概念的なものゝ一歩手前で踏みこたへてゐるといふ態度である。「砂丘」の遠景の三人の人物の周囲の絵の具の盛り上げた意味がないと思ふ。ただ空の色に異様な光りの吸収を為し逐げて[#「逐げて」はママ]美しい。
第四室
宮城輝夫[#「宮城輝夫」に傍点] の「猟」(鉄砲)は色彩に時代性があつて良い。独立展の進歩性の一つに私は是非色の時代性(進歩性)も加へたいと思ふ。画家は一応色彩家としての時代的敏感さがなければならない。その点独立の画家は色の性質に就いて無神経すぎる。デパートを一巡しても、もつと涯かに商品の上に色彩と時代との有機的関係が結ばれてゐるのを発見する。その意味でデパートの商品の色彩の方がずつと美しいし進歩的だし新しい。
曾宮一念[#「曾宮一念」に傍点] この作家が独立に加はつたといふことは、リベラリストとして正しい態度であらう。また曾宮一念の進歩性といふものも一般が理解してやらねばならない。色の新鮮性を私はかふ。但しその色の新鮮性といふものは、多分に主観的なものであるといふことを観者は忘れてはならない。仕事の上の非妥協的な態度は良いし、仕事に対しての苦しみ方など若い人々は学ぶべき点があるだらう。
海老原喜之助[#「海老原喜之助」に傍点] 「曲馬」馬はちよつと面白い。殊に馬の物量感がでてゐたし不思議な線の歪みの中に立体感を捉へ得てゐる。この人の絵はもつと小品をまとめて個展か何かで見せて欲しい気がする。
里見勝蔵[#「里見勝蔵」に傍点] 所謂里見式の仕事の反覆性が観念の固定を来してゐる。作者としては苦しい境地であらう。自分の才能を信じ切ることのできない良心的なところが、また里見の良さの一つであらう。だが、私の希望するところは、仕事の進め方の方法論だけである。俗に飛躍と名づけられるやり方で大胆に変つた試みをやつて欲しい。(否見せて欲しい)里見の場合一枚の画から、次の一枚の画に移る過程に必然性を看落してゐる。里見は仕事の仕方を、何か決定的なものに考へこんでゐはしないだらうか。その苦しみの切実さと、作品の出来栄とは又別だ。あゝまとまつたものでなく大いに過失をしてほしい。
第五室
鈴木亜夫[#「鈴木亜夫」に傍点] 「撮影」こゝに描かれた人物は一九三五年の人物ではない。取扱の上にすでに社会性が喪失してゐるし、絵を描く本能があゝしたテーマに動くとすれば低徊な趣味といふより他はない。
第六室
児島善太郎[#「児島善太郎」に傍点] 残念ながらブルジョア的要素を洗ひ切ることができてゐない。進歩性が少ないといふことは、絵を見るよりも、その絵を収めてゐるガクブチを見ればそれを雄弁に語つてゐる。
熊谷登久平[#「熊谷登久平」に傍点] 「夕月」「五月幟」「朝顔」その出品画や画題を見ても判るとほりすこぶる日本的な作家である。会でこの作家に「海南賞」を出した気持が判らぬが、賞は秀作に出すものだから、きつと秀れた作品といふのだらう。
第七室
この第七室辺りから独立展も少し見応へのある作品がチラホラと列んでゐる。
松島一郎[#「松島一郎」に傍点] 「靴屋」「豚屋」「港の人夫」「崖風景」この人には「崖風景」のやうな落着いた仕事をもつと拝見したい。靴屋人夫必ずしも風景より時代性に富むものとは考へられない。松島一郎の場合、テーマに特別の野心があるのが、却つてこの人の才能を殺し才能を半減してゐる。もつとスローモーションで結構だから、描く対象と取り組んだ仕事をしてほしい。
第八室
寺田政明[#「寺田政明」に傍点] 「長崎風景」「海辺静物」この人からは特殊な色感を発見する。それだけ人知れぬ苦心と勉強をしてゐるわけだ。展覧会芸術の色や線の強調一点張の世界の中では斯うした沈着いた仕事ぶりは、通り一ぺんの観客の眼には強く訴へないから損にはちがひないが、結局はこの人のやうに己れの風格で押して行つた方が勝ちを制するだらう。ただ目下のところ色の対置の美を少しねらひすぎてゐる感がある。「海辺風景」の方が良い。この絵からは見る者が一つの恍惚感を味ふことができる。線の発展と、構図と空間性の上では成功してゐる。「長崎風景」は「海辺風景」のやうな飛躍さがないが、ある沈潜した自然な美がある。
福沢一郎[#「福沢一郎」に傍点] 「水泳家族」「水泳群線」極度に魁[#「魁」に「ママ」の注記]異さと、誇張さとを追求した二点である。技術の伏線的で的確な点では独立随一の技術家であらう。
一枚の絵を描くにこの人位に計画性を完全な形で働かせ得る人はちよつとない。だからこの人は技術と主題と一致した場合恐ろしく良い絵ができなければならない人だ。だが、今度の水泳の二枚はこの人のこれまでの特長である思索的テーマを離れたものであるだけ成功とはいへない。『触手ある風景』は絵かきを驚ろかすことができるが文学者には首をひねらす絵である。
第九室
伊藤簾[#「伊藤簾」に傍点] 「雨霽」(熊野川)「静物」 この絵には良く人柄がでゝゐるし、すでに心境的作家に入つた絵である。心境的になるといふことが良いことであるか悪いことであるか性急に決めることができないが、若し心境的といふことが仕事の上の早老であるとすれば問題である。
第十室
須田金太郎[#「須田金太郎」に傍点] 「水浴」「少女」この人からは近代人の古典画作りといふ感がした。この感は遺作を列べてゐる三岸好太郎の諸作にも同様のことが言へる。三岸の場合は須田より年齢的に若いだけに一層その感が適用されるだらう。したがつて三岸の「人物」画よりも三岸らしい才能を発揮したものはシュルな貝殻や海へ傾けた近代人としての神経の細かなケイレンの感の美しさがある。
須田の場合は同じ古典画作りとしても、須田式な現実感があり、能動的な虚無主義者として躍如としてゐる。須田の絵からは一つの寂漠感と現実の否定的とを引きだすことができる。須田の絵の批評の場合は、彼の抱いてゐる世界観で踏みこんでいかない限り批評することができない。須田に色調を斯う変へてくれとか、材料が今どき「水浴」でもあるまいなどと注文したところで注文する方が愚の骨頂であらう。彼の絵には現実の空間に対して特殊な認識がありそれが彼の絵をボッと霞んだ不透明なやうな透明なやうな絵を描かせてゐる。
だから時には遠くの物を前景のものより明瞭に見るといふ場合が彼の場合多くある。そして視覚的意味に於ける前景無視の彼独特の処理の仕方に対して、私は一つの意見をもつてゐる。彼の激しい対象の追求の方法は私は好きだが本人が意図してゐるかどうか判らぬが意図の究極的なまとめ上げを客観的に観るときには、彼はそのまとめ上げを『光り』をもつて最後を制約してゐるといふことだけははつきりといふことができる。彼を虚無主義者とみ、しかもその能動性をみたのは、彼は如何なる肉体其他の描く物質をも、『光り』をもつて一度は破壊し尽し、再び『光り』として現実のものにまとめあげ形象化してゆくといふやり方である。試みに彼の「少女」を少し注意して見給へ。少女の肉体は全く光りをもつて形づくられてゐるから、――線画上の物質としての光りに就いては研究課題として面白いし、また須田国太郎に就いては言ひたいことが沢山あるが長くなるので次の機会に譲る折を見て須田論を試みたいと思ふ。
吉原義彦[#「吉原義彦」に傍点] リアリスト吉原の作画態度や、今度の独立への出品画に就いては、もつと採りあげて問題にしていゝ。殊に若い画家達の間には、リアリズムに就いてかなり関心を深めてその方向に画風を進めてゐる人が少くないだけに、吉原の仕事の進め方の検討は意義がある。絵画上のリアリズム論は茲では措いて、私は『オルガに扮せる原泉子』では、まだまだ手も足もでないリアリズムを感ずる。ブルジョア的写実主義者の作画上の自由性と新しい写実主義者殊に何等か仕事の上に社会性を附与しようと企てゝゐる、画家の作画上の自由性とは、それぞれ制約するものがちがつてゐる。吉原の場合ブルジョア的な自由は欲しないだらう。だが見給へ。ブルジョア的な自由主義画家がいかに勝手にふるまつてゐるかといふことを。その意味に於いて吉原はもつと大いに勝手にふるまつて良い。吉原の絵を見ると建設的要素は多いが、破壊的要素が少ない。然もこれらの要素を吉原は絵の上では個人的立場に解決してゐる。もつとリアリズムの守り手として、旧来の絵画上の諸秩序の打ちこはし手として吉原の創造性を発揮してもらひたいし、若い後進のためにリアリズムの基本的方向を示してやるべきだ。
第十一室
田中佐一郎[#「田中佐一郎」に傍点] この人は気迫の弱さにありながら、殊更に強い絵を描かうと努力してゐるといふ感がある。だから自然な素直なあまり無理をしない態度のものとかへつて人柄がでゝ美しいものがある。『牛』などその意味からも好感をもつことができる。
中村節也[#「中村節也」に傍点] カラーリストらしくふるまつてゐるが事実はカラーリストとしては認め難い。仕事は出鱈目なところが多いが、絵のまとめ上げの点や効果を心得てゐる点では隅に置けない『池鯉』など殊にさうである。
第十二室
多賀延夫[#「多賀延夫」に傍点] 『石など』 この絵のやうな画風をどんどんと追求して行つたら独自的な世界へゆくと思ふ。態度も素朴であるし、対象の理解も複雑である。石と鉄片の構成は面白いし、殊に石とか鉄片とかいふ物質に関心をもち、これらの粗雑な物質の表面の凸起面の描写に苦心してゐることは判る。題材は良し
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