あるといへよう。帝展派の画家の行き詰まりと、最も進歩的でなければならない筈のプロレタリア・リアリズム画家の行き詰まりの状態に相似点のあることは、この種の客観主義者が多いからである。これでは生きて[#「て」に「ママ」の注記]人間が絵筆をもつ必要がない。写真機のシャッターを切つた方が遙るかにましである。
 この種のあやまつた客観主義者に対しては、君はそれでは、客観の高さに尾いてくるほど、主観の高さの持ち合せがあるかと、質問をしたい位である。モヂリアニは一見頗る主観的な画家のやうに見えるし、また事実彼の仕事ぶりは主観的な強さが勝つてゐたであらう。だが、彼の出来上つた絵を見給へ彼の絵は何と冷静な、科学性の豊富な絵であらう。
 モヂリアニの生活行動の奇矯から察すれば、彼は逆立ちをして絵を描いてゐなければならない筈であるのに、なんと彼はすべての人々に、絵の玄人にも、素人にも、判り易い、尋常な形に於いて表現してゐることであらう。彼の絵から受ける感じをもつて通俗性と呼んではいけない。それは『大衆性』と呼ぶべきである。
 そしてモヂリアニの作品に対して見る者をして感心させ、『モヂリアニの絵は、ただ何とな
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