しかしキノドラマ論者は、現在その運動を継続してゐるとは思へない、なかに甚しいのは、さうしたことがあつたかといはんばかりに、口に[#「に」に「ママ」の注記]拭つて、空とぼけてゐるのである。
 自分一個人の考へをこゝに差加へれば、当時キノドラマ支持者に対しては自分は斯ういふ考へを抱いてゐた「彼は芝居の味を知らないものゝ不安である――」と、しかも一流と言はれる演劇批評家や劇団人が、これを支持したに至つては唖然とせざるを得なかつた、一つの芸術ジャンルの将来を語り、その存廃に少しでも触れる場合には、少くとも態度としてキノドラマ論者のやうにありたくはない、何故ならキノドラマ論者の所謂「味噌」は、映画の本質、劇の本質、その何れにも不安を抱いたといふ、その中途半端的なところにある。
 いまここに日本画を論じてその将来を語る場合には、自分は日本画の「本質」をあくまで支持するといふ態度を失ひたくはないと思ふ。しかしそのことと、つまり本質を支持するといふことは、日本画が存続するか、廃滅するかといふこととはまた別なのである。
 映画がこれほど盛んにならうが、その発展が正統なもので、本質的なものであればこの映画
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