醒と放庵といふ二人の人物が存在するのであるか、私はそのことを興味ふかく考へてみたいのである。
洋画を追求した未醒は、日本画に転じて放庵と改名した。これは二人の人物ではなくて、一人の人物のことである。曾つては未醒と呼んだこともあるといつた。一般的な理解はそれは一般的な理解で納得する人にだけまかしてをけばいゝのである。私は未醒の洋画から放庵の日本画への移行といふものを、もつと追求して考へてみたいのである。もしこんなことができるのであつたら、小杉未醒といふ洋画家にいままで洋画を追求させてこさせたかつたし、また小杉放庵といふ日本画家にも、日本画の追求をつづけてこさせたかつたといふ、殆んど不可能な慾張りな希望をもつてゐるのである。その希望は殆んど夢想的なもので、また夢幻的な不可能な希ひである。しかし幸ひにして、後者としての日本画家放庵は、生きつづけてきてゐるし、仕事を連続的にしてきてゐるのである、しかし一方未醒はその実体が時に距たれて、影うすく、また全く存在してゐないのである。
洋画を自個の芸術の手段とすることに、不満を感じて日本画に転じたものであらうかといふ疑ひは、洋画家から日本画に転じた
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