(西村五雲)など、鶴の羽の裏あたりの明暗など成功したものといふ定評があつた[#「。」がないのはママ]だが西村五雲は唯バックが装飾的に行く上から止むを得ないかも知れないと思つたが、どうも少しどうかと思つた、と言つてゐる。殊に平福百穂は「三段にも四段にも塗つた群青の水と茶色の草原ですが、そこに何だか落付かないところがあつて、大変惜しい気がするのです――」といつてゐる。この人達の批評の中で、私の興味をひくのは作品の出来不出来の批評をしてゐるに違ひないが、心づかずして石崎光瑤の本質を語るものがあるからである。「そして何だか落付かないところがあつて、大変惜しい気がするのです――」といつた平福百穂氏の言葉が光瑤氏の本質論を代表してゐるのである。読者は石崎光瑤氏の作品全体を通じて、どの作品にも秘められたところの不安感が漂つてゐるといふことである。殊に初期の作品にはそれが多い。この不安感、焦燥感は、不用意に見るときは、感じないで見過ごしてしまふ程度のものである。しかし作品は少しく吟味してゆくときは、それを発見するであらう。露骨ではないが、ある種の焦立ちを感じさせるものなのである。たゞその不安感はその色
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