をもつてゐるのである。氏の作品を明朗主義に批評した人があつたがそれは確かにその感を与へる、然しその明朗主義は、最近の人物画に於いて殊にさうした状態をみせてゐるのであつて、草花、果実の類には、さういつた種類の明朗主義は認められない。そこでは小倉氏の写実家であるといふ全貌を、発見することができるのである。二十一回の院展の『花』二題も好評のやうであつた。しかしその作品を小品扱ひにして、決して女史の本質的技術の点に作品を通じて論ずる者はまた少ないのである。『浴女』や『浴後』は一言でいへば一般観衆にとつて取つ付き易い絵なのである。殊に『浴女』の場合は、批評をする人間が、小倉氏の絵の批評ではなく、あの絵がつくりだす温泉的な雰囲気にひたるのには、全くもつて都合がいゝその批評家は、ゆらゆらと立ち昇る湯気の中で、ほんとうに温泉にでもひたつたやうな気持になることができる。そのことは小倉氏の絵がうまかつたからである。しかし小倉氏の絵がうまいといふことと、批評家がその絵をみて、ほんとうの温泉に入つたやうな気分になるといふことは別なのであらう。批評家は絵の実感に溶けこんでわるいといふのではないが、描かれた湯の絵
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