つてゐるのではない。また作り話でもない。さる一流の堂々たる美術雑誌にさう批評されてゐたのである。私はこの神泉批評を読んだとき、思はず微苦笑を洩した。この批評家は決して神泉氏に対して皮肉な意味で言つてゐるのではない。大真面目に神泉氏の鯉、蓮の題材から狸への飛躍を祝福し、更に毛皮への躍進を求めてゐるのである。もし、本当に徳岡氏が毛皮を描いたらどんなことになるであらう。その批評家は、きつとかう激賞するにちがひない。『徳岡神泉氏の「毛皮」の作は近来稀な出来栄えでその画材も、従来に一新気軸を与へたものである。毛皮の眼の玉は、あたかも生けるが如くランランと輝いてゐる――』と、毛皮は毛皮らしく、毛皮の顔にはめられた硝子製の眼玉は、その硝子らしさに描くところが神泉氏の絵の行き方である。硝子らしさに描いた眼の玉を「生きるが如く」と批評するところが、フワンのフワンたるところであり、賞めつ放しの一般的批評の底でありフワンの味噌なのである。こゝでお可笑な例証を挙げてしまつたが、神泉フワンは、作家が題材的にも大いに今後飛躍して、毛皮まで描いてほしいといふ欲望をもつてゐるといふことをこゝでちよつと伝へておきたい。しかし神泉といふ作家がさうした神泉フワンの求め方に応ずるかどうか、それは多大に疑問なものがある。
 それはフワンの期待の毛皮を生けるが如く描くのではなくて、神泉といふ作家は毛皮を死んだやうに描きたい――といふ欲望をもつた作家であり、その即物象主義といふか、対象の物質性への喰ひ下りの態度は、日本画壇でもかなり強烈な態度をもつた作家なのである。ただ絵の出来上りの静謐さが作者のさうした内部的な欲求を温和に隠してゐるために、その激情性は見えない。作者の客観的態度、つまり作者が外部から自己の慾望へ加へるところの圧力の強さといつた方がわかり易い。自制力の強さの点では神泉といふ作者は珍らしい。そしてさうした圧力が作品の自由性を決して損ねないといふ手段をもつてゐる点、これまた神泉といふ作者は、画壇でも珍らしい。作画上の方法を身につけてゐる作家といふことができよう。
 自制力を加へることに拠つて、次第に動きがとれなくなつてゆく作家もあり、又反対に自制力を加へることによつて、自己を拡大してゆく作家もある。また第三の種類の作家に、全く自制力などといふことを考慮に入れず、自己のあるがまゝに振舞つてゆかうとするものもある。殊に神泉の場合の第二の自己抑制の方法は甚だ自己を知るものと言へるだらう。作家が現実からの衝撃のうけ方の敏感なものは、通俗的な形容でいへば、『あまり神経質な作家は――』その神経質なために却つて芸術が完成されずに、作品も人も斃れてしまふといふ場合が少くない。神泉を指して「感」といふよりも「癇」だと形容したのはそれである。俗にいふ「癇癖」の強い作家の一人に私は神泉氏を加へたい。次いで「癇癖」組を二三挙げてみよう。小杉放庵氏なども加へたい。横山大観氏などその癇癖の大なるものだ。そして神泉、放庵、大観にしてみても、精神上の癇癖の高いことと反比例して、作品的にはまことに、温和な境地を開拓してゐるのである。これらの作家がもし心のまゝに絵を描いたならば、絵がまとまらないばかりでなく、絵絹を引き裂くのと一緒に、自分の肉体をも一緒に引裂いてしまふであらう。しかしこれらの作家は、自己抑制の手段を、まづその画風の上で打樹ててゐるといふ賢明さがあるから、その破綻を自己の手によつて繕ふことができるのである。自己破綻の救済といふことを、絵で描くといふことによつて果たされるといふことは、簡単明瞭に、それは良い作品が残るといふことになるのである。神泉の制作態度のネバリ方は、かなり個人主義的なものであるに拘はらずその出来た作品が決して個人主義的ではなくて、いろいろと画壇に問題を提出してゐるといふことは、そこに神泉の仕事のしぶりの面白さがあるのである。
『誰のために描いてゐるか――』といふ質問をすべての画家に発してみたいものである。そして徳岡神泉氏へも一質問を試みたらどうであるか、画商のためにか、或は日本美術の世界的発展の為めと大きく出るか、或は妻子の幸福のためといふ子孫永続の立場にたつか、金が欲しいためにか、世間的栄誉を目指してか、行きがゝり上描いてゐるか、あの男に負けるのが忌々しいからと、小さな個人的勝敗心理からか、かう数へあげればきりがない。神泉氏に対して、『貴方は誰のために描いてゐますか――』といふ質問を発した場合に、彼は何事も答へないであらう。そして黙々と牡丹や蓮ばかり描いてすごすだらう。たまたま一党派の主脳者となつたために、後進、部下のためにも、勉強ぶりをみせなければならない立場に立ち到つてゐる画家も世間にはある。そしてその主脳者は、相当に自分の実力以上に無理な仕事をして主脳的位
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