すると相手はさういふ質問の追求を軽蔑したやうに、確信的に
「いや、とにかくうまいもんだよ」
 と答へるのである、奥村土牛はたしかにこのやうに目下世間的に好評なのである、しかし、土牛の作品は何故良いかといふ具体的内容に触れた言葉を、いまだ曾つて聞いたことがない、然も土牛の作品に対する美術雑誌の批評を調べて、この人物論を書くのに少しは参考を得たいと思つて、いろいろ読んでみたが、その批評家たちの批評は、言ひ合したやうに「とにかく土牛の作品は神品だ――」式の批評であつて、土牛の本質に触れる力が批評家にないのか、或はなるべく本質に触れることを逃げ廻りながら、上手に賞める言葉を考へ出さうとして苦しんでゐるかのやうに見受けられる、したがつて世上流布の土牛論は一つも参考資料にはならなかつたのである、それ許りではない、これらの土牛批評と私の批評とは、ことごとに意見の対立的なものがある。
 ある美術批評家は、土牛の色感に対して、実に新鮮で若々しく青年的だといふ批評をしてゐるところで私の土牛の色感に対する考へは、その批評家の考へとは、まるで反対な意見をもつてゐる、土牛の色感は青年的どころか、老人的なのである、人生を幾つかの段階に分けて、その竹の節のやうなつぎ目つぎ目に、感情の躍進があると仮定すれば、土牛の最近の色彩の、一見、青年的にみえる色彩は、その人生の節の一つである。「初老的」な感情の躍進が、色彩に反映したものと観察を下すのである。
 世間には七十歳になつて、緋色の袖無しを着るといふこともあるのである、土牛の色にあざやかな赤が使はれてゐたからといつて、それをもつて直ちに「若い」などといふ軽忽な批評は下されないのである。さういふ批評家は闘牛師が赤いマントをふりさへすれば、飛びついてゆく牛のやうな、ムチャクチャな単純な頭をもつた批評家といふべきだらう。
 少くとも赤の種類といふものを考へないわけにはいかない、またもつと突込んで、その画家が使用した色彩の性質と、画家そのものの肉体的生理的状態と、よく照らし合はして、そこから一つの批評語を抽き出さなければならないと思ふ。奥村土牛氏はたしかに、現在第一人者的人気を呼んでゐることは確かだが、この人気を呼ぶやうになつたこれまでの作品的な根拠といふものも、一応立証されなければならないし、また現在の作品が、この人気を持ちこたへて、永続的であるかどうかと
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