うか、
あの『三人の女』の画面からワイセツ感を得たのは、私たつた一人でせうか、何万といふ観衆が、あの絵から心よい芸術的法悦を受けとつてゐるのに、私一人があの絵からワイセツ感を受けとつてゐるとすれば私が心が奥[#「奥」に「ママ」の注記]しいからでせう、しかしお可笑なことになつてきたのです。
私は文展日本画をいつも二度に分けて観にゆくので、今度も第二回目に十一月三日に観に行きました、そして貴方の問題作『三人の女』の前に立つたとき、私は思はずギクリとしました、私は第一回目にみたとき、漠然と画面の全体的雰囲気としてワイセツ感をうけとつて帰つたのではなく、念入りにみて、一本の線が強すぎた――この線の橋本明治的解釈の誤りが、この絵を害ねてゐるのだと具体的な部分に触れ、充分納得して帰つたのです、ところで二度目の(十一月三日)に行つてみると、そこの部分が胡粉で塗りまくられて消されてあるではありませんか、私でなくても唖然としないではをれないでせう、これ以上長々と書く必要もないでせう、詩人といふものは直感を信じきつてゐるものなのです、詩人とは直感とともに生き、またそれとともに滅びていゝものなのです、文展開会第一日に描かれてゐた股の線が、十一月三日には消されてあるといふ、それに対して、文部当局の答弁も、また貴方自身の答弁がもし『そんなことは知らない、会期中に加筆して消した、そんなことは絶対にない――』といはれても、私にとつてはそれを覆す証拠といふものをもちません、私は最初見たときあつたといふ、私自身の直感を信じて、『いや確かに加筆してゐる――』と自己の確信を述べる以外に手段がありません、
しかし私には満更味方がないとはいへないのです、それはこの公開状の掲載した原稿はをそらく文展開催期間中に発行できるでせう、一本の線があつたか、なかつたか、後から消したかどうかといふことがわかるのは、技術者としての日本画家の諸君あるのみです、第一日招待日に行つた画家で貴方の作品を注意してみた画家があつたら、再度会場に足を運んでみればどつちが正しいか明瞭になる筈です、貴方の作品に手を加へたのは誰でせう、然も会期中に勝手に手を加へていゝものでせうか、審査員の権威といふものはどこにあるのでせう、もし貴方自身が手を加へたとしたら、貴方も長いものに巻かれることを知つてゐますねといひたい、或は貴方も知らないのに、
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