しかしキノドラマ論者は、現在その運動を継続してゐるとは思へない、なかに甚しいのは、さうしたことがあつたかといはんばかりに、口に[#「に」に「ママ」の注記]拭つて、空とぼけてゐるのである。
自分一個人の考へをこゝに差加へれば、当時キノドラマ支持者に対しては自分は斯ういふ考へを抱いてゐた「彼は芝居の味を知らないものゝ不安である――」と、しかも一流と言はれる演劇批評家や劇団人が、これを支持したに至つては唖然とせざるを得なかつた、一つの芸術ジャンルの将来を語り、その存廃に少しでも触れる場合には、少くとも態度としてキノドラマ論者のやうにありたくはない、何故ならキノドラマ論者の所謂「味噌」は、映画の本質、劇の本質、その何れにも不安を抱いたといふ、その中途半端的なところにある。
いまここに日本画を論じてその将来を語る場合には、自分は日本画の「本質」をあくまで支持するといふ態度を失ひたくはないと思ふ。しかしそのことと、つまり本質を支持するといふことは、日本画が存続するか、廃滅するかといふこととはまた別なのである。
映画がこれほど盛んにならうが、その発展が正統なもので、本質的なものであればこの映画の隆盛が、他の芸術ジャンルを脅やかしたり、滅ぼしたりするといふことは絶対にない、日本画も洋画も、各自その本質をのばすといふ点では少くも、一方が一方の正しさを滅ぼすといふことは考へられないのである。たゞこの間にあつて芸術的な正統性を、政治的工作に依つて歪曲されるといふことは、世間にはよくあるのである。しかしそのことはこれまた問題が別になる。
今度の院展や青龍展をみて、それを一口で悪く言つてしまふことは簡単である、多くの洋画家の日本画評はさうである。日本画壇の内部でも、前衛を自称する作家は、現在の日本画を酷評する、しかし日本画と洋画(日本での)とその何れが進歩的であるかと、いふときに、直に日本画よりも洋画であるとは軍配をあげることができない。
伝来的なものを直に古いと考へ込むことは最も危険なことである、こゝで冗々しく長いほど、わかり易く言へば、日本画家とは何ぞや――であらう『日本画家とは日本人であつて日本に昔からある日本画といふ材料を使つて伝来の方法で、日本の風物、人情を描く画家を言ふ』
次に日本における洋画家とは『日本人であつて、西洋から移入した材料を使つて、もつとも新しい方法で、
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