が『人との間に垣を設けない――』といふことは特に驚ろくべきことではないので、氏にとつては対人関係に於いて『武装する時代』はすでにすぎたのである。しかし南風氏がその製作にあたつて、『自然と彼』との関係に於いて、この男ほど垣を設ける作家はゐないのである。
 その絵をみればわかるやうに、第一にその構図の上でも、徹底した構図主義者であるといふこと、しかもその徹底ぶりが完璧的であるために、ちよつと見[#「ちよつと見」は底本では「ちつよつと見」]には作意もなく自然に出来てゐる、描けてゐるやうに見えること、その実作者自身の心境は、世間でいふやうほどにも、単純でも素朴でもないといふことである。
 彼は描く自然に対して、人間的な厳格さをもつてたち向ふ、この種の作家は、自然の美しさに極度にヤキモチを焼く作家に属してゐる、そのヤキモチの焼き加減は、死んだ速水御舟ほどにもひどくないが何かしら『人間的表現』を求めないではをられないといふ点では良く似てゐる。
 南風氏の絵からは、ナイーブなものを受けとるといふよりも、ある『辛辣なもの』をうけとることが多い、南風氏は人柄が良いにちがひない、しかし絵そのものは実に『人が悪い』絵である、どういふ風に人が悪い絵を書いてゐるか、これをいちいち解くには、南風氏の神経の密度から論じていかなければならない、それでは大変だ、そこでそれを短かく要約して言つて見よう。
 南風氏の絵の人の悪さは『日本画の伝統をぢりぢりと少しづつ破つてゆく、その方法の人の悪さ』である。川端龍子や、近藤浩一路のやうに、短腹《タンパラ》の気の短かいやり方で、日本画の伝統や封建性を打ち破らうとは、南風氏はけつしてしてゐない。
 南風氏は、評判作『朔風』の飛んでゐる鴨の群のその先頭を飛んでゐる一羽の鴨のやうに、ただ着実に『羽を動かす』だけである、しかもこの真先にとんでゐる鴨は、しぜんな羽の動かし方で、飛翔力の強い、余裕のたつぷりあるすすみ方であつて、それにつづく鴨は後れてゐる鳥ほど、前の鳥を追ひ抜かうとして焦燥してゐる、南風氏作『朔風』は単なる屏風絵ではすみさうもない、日本画壇のセリ合ひを諷刺したやうな絵である。
 堅山南風氏の弟子であつたM氏が、南風氏より先に美術院の同人になつた、つまり昨日の弟子が今日は先生の絵を審査する立場になつた、封建性の強い徒弟制度的な日本画壇で、どうしてかういふ現象
前へ 次へ
全210ページ中19ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小熊 秀雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング