したら、隠れた才能がぐんぐんと現れさうな気がする時もある、
恐ろしいのは環境の力である、春陽会にせよ、国展にせよ、こゝの静的な環境はどうにもならないものがある、突然の変化をもつて、新しい仕事をしようと気構へてゐる作家もあるだらう、然しさうした積極性をもたうとすると、ぐつとそれを後に引きつけるものがある筈だ。
一体それはなんだらう、春陽会といふ一つの団体が身につけてゐる環境であり、脱れることのできない泥沼である。その意味で出品作家達個々の背負つてゐる社会的環境の性質を、かうして具体的に展覧会で見せてくれて貰へるといへる、独立展は観者の眼を痛くするための展覧会であるとすれば、春陽会国展は観者の眼を瞠らす展覧会である、こゝに出品してゐる作家に、私は芸術上の言葉、『平安』『秩序』『完成』『理性』『静観美』といつた性質の言葉が全部当てはまると思ふ、しかしこれらの合法則的な言葉を認めこれが作品に現れてゐるとすれば、これらのものの正反対の、『不安』『無秩序』『未完成』『感情』『動的美』といつた心理的過程を、これらの人々が真剣に通過してきて、これらのまとまつた温和な絵が出来たのかどうかを質問したい。
描く対象に対する懐疑も、一応認められるが、なるべく混乱しない程度に懐疑するといふ限界内で止めてゐる、そこに春陽会、国展出品者に共通な、作画上の道徳律を発見する、他人の考へを騒がしてはいけないといふ良心性は、腹の底を割つてみれば、他人にも自分を騒がして貰ひたくないといふ報酬を求めてゐるだけである。
そして私はこの両展覧会が不思議に、沈着いてみせてくれたといふ事に就いて、独立展其他の所謂前衛的展覧会が沈着いてみせてくれなかつたといふことと思ひ合はして、色々な意味で考へさせられた、人間の心理を掻き立てるだけを芸術的アッピールだと考へちがいをしてゐるらしい新しい傾向の画家と、とにかくじつくりと見せてくれた春陽会国展とどつちに感謝したらいゝかといふと、不思議なことに、新しい傾向の絵で胸を騒がして貰つたよりも、アカデミーと称し、クラシックといはれてゐる春陽会、国展の方に感謝してゐるといふ答がでた。
宣伝、煽動を芸術行動の目的として認めなければならない、左翼的絵画でさへも、尚且つ必要以上に、絵をもつて宣伝、煽動をすることが誤りであらう、一つの条件としてまづ落着いて見せる――然る上に――とい
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