て楽な画材に求めずして、とかく黙殺され、顧みられもしないやうな、自然の一隅にある雑草をさへ、或は小さな樹の枝などの運命の姿を見極めないでは済まないといつた態度にすすめてゐることは敬服せざるを得ないのである。もしこの写実態度を自然物ではなく人間社会に当てはめた場合には、描写の細かさは、人情の機微の細かさに当てはまる、私が桂月氏が人情家であるとかないとか断定的に言ひ得たのも、氏のさうした作品の手法上の態度に現はれたところから言つたものである。自然観察の粗暴な作家が多い折柄に私は松林桂月氏の綿密な写実精神と自然対象に対する作家的愛情といつたものを支持したいと思ふ。
『花宵花影』(紐育万国博出品)のやうな作品では、我々は時代的に世代的に、これ以上の日本画の伝統と写実的手法の継承者といふものを、松林氏以外に他にもとめることが不可能だと思はせた作品であつた。殊にその作品が対外的な意味をもつてゐるだけに、松林氏をその出品者の一人に求めたといふことは適当な選であつたと思はれる。紐育博の出品顔触に対しては、その作品は当時問題にしようとせず、人選を兎角の問題にしたやうであつたが、あゝした海外に送るといふ特殊的事情の下にあつては、余程の人選の慎重さは勿論であるが、さりとて僅かな海外出品者をもつて、我国画壇の全部を語らせようと慾張るときに無理が出来るのである。松林桂月氏の『春宵花影』は題材的にも桜花を扱つて適当であつた。然も桜の花を過度にロマンチックに外国人に画いて見せる作家はザラに居る筈である。桂月氏の作品はその態度の厳格さと、題材そのものがもつてゐる情趣とが、ほどよく調和的で外国人に見せるには、うつてつけの作柄であつたやうである。外国人といふのは始末に終へない現実主義者の代名詞のやうなものである。東洋的神韻といつたものは、東洋的抽象的表現をもつてしては絶対に彼等に伝へることは不可能なものなのである。本質を玉堂の『鵜飼』や関雪の『霜猿』や大観の『夕月』の余韻の多い作品は外人の理解の範疇の外に出る。桂月の『春宵花影』や古径の『雪』のやうな写実的手段でなければ西洋人の悟性中心的な考への中に侵入することは不可能だと思ふ。しかも桂月氏はその桜の花を決して明るく描かなかつた許りか、陰気にさへも描いてゐたことは、東洋の詩と夢の国としての『日本』の現実的な是正として成功作だといはなければなるまい。更に
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